Architecture
A-014    私がめざす建築は     s a / r a
simple architecture _ real architecture
「結界」としての格子戸

壁やフェンスで空間が完全に仕切られていなくても、そこはこことは違う空間だと感じることがある。 それは広い意味で「結界」といえるのかもしれない。

例えば、

床(あるいは地面)の素材が異なっていると空間の違いを感じることがある。
座敷(和室)に格式をもたせる「床の間」の床は板張りにすることが多い。 畳敷きの一部に板を張り、それも縁甲板(フローリング)のような継ぎのある張り方ではなく、磨かれた無垢の一枚板を張ることで緊張感を演出し「床の間」を特別な空間として意識させている。
また、神社に向かって歩いていているとき、参道の大鳥居はまだ少し先であったとしても、地面が砂利敷きや石畳みに変わると、何故かそこで気持ちが厳かになったりする。
このように、わたしたちは床の素材が異なると、空間の意味まで違って感じることがある。

床の高低差についても同じことがいえるかもしれない。
先の例に挙げた「床の間」の床だけれど、板張りでなく座敷と同じ畳の薄縁(うすべり)を敷くこともある。 その場合、座敷の畳と段差つけないで薄縁を敷けば空間は一体化するけれど、そうはしないで「床框」を設けて「床の間」の床を一段上げることで空間の格を上げている。
また、日本の住宅の玄関における床の段差もそうだ。 日本では湿気対策として床を地面から浮かせるため、玄関土間とは必然的に段差ができてしまう。 バリアフリーの観点からいえば、土間を嵩上げして床の高さをそろえればいいのだが、土足の土間は不浄であるとし、「上り框」を設けて床を土間より一段高くするのが一般的で、この慣習はなくならないだろう。
このように、わたしたちは床の高さを変えることで空間を差別化している。

こことは違う空間は潜り抜けた先にあったりする。
茶室には客が庭から入る「躙口/にじりぐち」と呼ばれる縦横二尺(一尺≒30.3㎝)あまりの小さな入り口がある。 頭を下げて四つん這いにならないと茶室に入ることはできず、武士も帯刀していては潜り抜けることができないほどの小さな入り口だ。 躙口は「侘び茶」の精神で千利休が考え出したといわれるが、貴賤を問わず、誰もが一旦ここで無防備で無様な姿をさらさないと入れない世界をつくったところに利休の思想を垣間見ることができる。 建築的には、身体を小さく屈めて茶室に入ることにより、小さい空間を実際より大きく感じさせる心理的効果がある。
潜り抜けるといえば、川端康成の「雪国」の冒頭が有名だ。 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」というものだが、もし長いトンネルが無ければ、単に汽車の進行に伴って少しずつ雪国の風景に変化するグラデーションがあるだけで、雪国を異空間として認識することは難しいだろう。
このように、ひとは潜り抜けることで異空間に入っていく。

そういえば、渡った先にも異空間があるような気がする。
芝居やドラマで象徴的に扱われる「橋」だけれど、橋のたもとで恋人と別れるというベタな演出は古今東西数多あり、恋人が橋を渡るのは二度と会えない別世界へ行くことの暗示でもある。
また、日本の伝統芸能である「能」の舞台は、客の前で能を演じる「本舞台」とその演者が出演前に姿や気持ちを整え準備する「鏡の間」、そしてそれらを結ぶ「橋掛かり」から構成されている。 本舞台は「現世」、鏡の間は「幽界」とされており、やはり異空間に行くには橋を渡るのだ。

ちょっとした仕掛けでこことは違う空間だと思わせることもある。
近頃ではあまり見かけなくなった「衝立(ついたて)」や「屏風(びょうぶ)」は目隠し、風除けだけでなく、空間を仕切るという役目がある。 壁と違って実にいい加減な仕切り方ではあるが、囲われたところに立ち入ったり、ジロジロのぞき見しないで下さいということを暗に示す手軽な仕掛けといえる。
茶室で使われる「炉屏/ろびょう(あるいは、結界、座頂、座障ともいう)」は形式的な低い衝立(囲い)だが、もてなす側と客の空間を仕切る意味がある。

暖簾(のれん)も空間を仕切る仕掛けといえるだろう。
店舗の玄関先に暖簾を掛けることで商い中であることを表明するだけでなく、商い空間の内と外を軽やかに仕切り、視線を遮る役目も果たしている。 衝立同様、仕切り方はいたっていい加減ではあるが、用もないのに立ち入ることを憚らせる効果もある。 また、暖簾のデザインや仕様でその店特有の文化や価値観、雰囲気を道行くひとに伝える広告媒体としても有効だ。
「衝立」や「屏風」も含め、このような空間をあいまいに仕切る仕掛けは、日本古来の「見立て」という文化の上に成り立っているのかもしれない。