Architecture
A-015    私がめざす建築は     s a / r a
simple architecture _ real architecture
大自然の中でのハーフティンパー

何もないところに何かをつくろうとするには、つくるための何か「よりどころ」が必要である。 建築、特に住宅の場合、雨露をしのぎ外敵から身を守らなければならない、という生きてゆくための必然性が、古今東西だれもに共通する「よりどころ」となる。 では、それをどのようなものを使ってどのようにつくるのか。 建築技術や材料の運搬手段がままならぬ時代には、ひとは自分たちの身の回りにある自然材料を工夫し、その土地の気候風土に合った建築をつくっていた。 今なお世界各地に残る伝統的民家の多様性を思い浮かべれば、そのことはよくわかる。 この場合、その建築をつくるための「よりどころ」は、手に入る自然材料や対処すべき気候風土であり、これも生きるための必然といえるだろう。 しかし技術や運搬手段の発達で、遠方から材料を取り寄せたり空調設備で一年中快適な内部空間を維持することが可能になると、「よりどころ」が生きてゆくための必然性から開放され、つくるひとの経済力やライフスタイル、あるいは「好み」といったものに代わるようになった。 つくる側からすれば、選択肢が増えたのは良いことである。 しかし、その時の浮ついた気分を「よりどころ」に、ヨーロッパ風とかカントリー調などといったわけのわからない建築が街で散見される無節操な日本の状況にはウンザリする。 周囲が田んぼの新興住宅地の一画に、ドイツのロマンチック街道から切り取ったようなデザインの「張りぼて建築」を何故建てなければならないのか、という問いに、真っ当な答えは期待できない。 なぜなら、そこには建築の「意味」などないからだ。 ケーキ屋さんに並んでいる色鮮やかに飾られたショートケーキを、「これ美味しそう」といって選ぶように、建築のデザインを選んだだけのことなのだ。 飽きてしまえば次また別のものを選べばよい、という次元。 個性的なファッションを雑誌やテレビから学んで街に出てみると、他のひともみなそのファッションだったというのが、他人事として笑えない。 開き直って迎合するか、殻に閉じこもって細々と生き続けるか、むかしから建築家に突きつけられているこの問題は、シェークスピアの「ハムレット」ではないが、「To be, or not to be (生きるべきか、死ぬべきか)」なのだ。