Architecture
A-029    私がめざす建築は     s a / r a
simple architecture _ real architecture
ありのままの飾らない清々しい空間、であるか?

清々(すがすが)しい人でありたいと思っていても、なかなかそうはなれないものだ。 わたし自身のことで言えば、些細なことにこだわったり、悶々と悩んだり、どこか偏屈な面があったりと、ぜんぜん爽やかではないし思いっきりも悪い。 見た目では、いつも寝不足気味のボ~ッとした顔で、髪は固形石鹸で洗い手櫛ですくだけのボサボサ頭、化粧品やスキンケアとは無縁、その上数十年同じセーターを着ていても頓着しないという有様だ。
ひとは自分にないものに魅力を感じるというが、それは素直なひとの場合で、ひねくれものは自分にないものに嫉妬し、それが過ぎて反感すら抱くようになるので始末に負えない。 あ~っ、やだ。 やだ。

大阪にあるサントリーという会社はお酒を造っているにもかかわらず、昔から広告が洒脱で洒落ている。
以前 「なにも足さない、なにも引かない。ありのまま、そのまま。この単純の複雑なこと。」 というコピーを見て、いたく感心した。 「歳月には力がある。歳月を養分にして、この琥珀色は滴った。」で始まるこのコピーは、中ほどに 「朴訥だが明晰。シンプルだが、奥が深い。なんという矛盾だろう。静謐があって、覇気がある。ゆったりと、鷹揚で、大きな流れと、縦横無尽に闊歩するものとが、同居している。」 とあり、次に初めに紹介した言葉が続くのだ。
これは当然自社のウィスキーのことを語っているのだけれど、大らかな老子のことばのように箴言(しんげん)としても普遍性があるように思う。 当時、建築に対して片意地を張っていたわたしは、このコピーを見てなんだか肩の力が抜けたような気がした。 そして、「あぁ、このような建築をつくりたい」と切に思ったのだ。

さて、「清々しい」とは先のサントリーのコピーの意味するところとは少し違うが、ありのままで飾らない自然なあり方という面では同じであるように思う。 ならば、清々しい建築とはどのようなものであろうか。
頭でつくった建築、コンピュータに頼った建築、流行りを追った建築、性能を求めた建築、土着性を装った建築、工業製品と化した建築、形やデザインがあざとい建築、伝統に胡坐(あぐら)をかいた建築、表と裏がある建築、設備が過剰な建築、商品としての建築等々、世にはいろんな建築があるけれど、わたしはさりげなく普通に作為性のない自然体の建築ができないものかと考える。 人間がつくるのだから、作為性がないというのは無理だろうけれど、例えば、春暖かくなると土の中から円錐形の頭をむっくりもたげる筍(たけのこ)のような、そしてそれが真っすぐ大空に向かってグングン成長し、青々とした立派な竹となってしなやかに風に揺れているような、「なにも足さない、なにも引かない」ありのまま、そんな自然のままの建築をつくることができないだろうか。。。
などと、相も変わらず具体性のない戯言を、大の大人が恥ずかしげもなく独りごちているのである。