Architecture
A-043    私がめざす建築は     s a / r a
simple architecture _ real architecture
閉鎖的で狭い空間はなぜか落ち着く

「すみっコぐらし」というキャラクターが小学生を中心に人気だという。 2019年に日本キャラクター大賞のグランプリを受賞しており、なぜか中年男性にも隠れファンがいるらしい。 (わたしは流行に疎いので、もしかすると今は多少下火になっているかもしれないけれど。。。)
「すみっコぐらし」を「隅っこ暮らし」と漢字にすればそのイメージはつかみやすい。 サンエックスという文具・雑貨メーカーのオリジナル・キャラクターで、そのホームページのはじめに「電車に乗ればすみっこの席から埋まり、カフェに行ってもできるだけすみっこの席を確保したい・・・。すみっこにいるとなぜか“おちつく”ということがありませんか?」と問い掛けている。
わたし自身あまりそういう習性はないのだが、確かに電車や催し会場などで隅の座席から埋まるのはよく見かける光景だ。 誰もいないド真ん中にドカンと座るのはどうも気が引けるとか、端だと出口や通路に近いという機動性を考えてのこともあるだろうけれど、どうもそれだけではないような気がする。 公衆トイレでずらりと並ぶ男性用小便器の使用状況を調べたら、隅で用を足すひとが多いという調査結果もあるらしい。

そもそも人間は他人との間に距離をとって快適な自分の空間(パーソナルスペース)を保とうとするらしいが、隅っこ志向はそれと関係があるのかもしれない。 隅っこなら両側から他人に挟まれる心配がなく、少なくとも片側のパーソナルスペースは保証されるのだから。
また、狭くて薄暗い空間(というとネガティブなイメージがあるけれど)にじっと身を潜めているとなぜか安心するという誰もが潜在的に持つ胎内回帰願望も隅っこ志向に関係ありそうだ。 胎内にいるようにからだを優しく包みこんでくれる空間はひとを安心させ、心もからだも癒してくれる。 例えば、生まれたままの姿になってお風呂でひとり湯船につかっているとする。 その状況でリラックスできる手ごろな空間の大きさというものがあるはずだ。 ホテルの大浴場のようなところに裸でひとり、というのはやはりどこか不安で落ち着かないであろうことは想像に難くない。
ひとはつい大きくて開放的な空間を求めがちだけれど、実は用途や目的、あるいはその時の心身の状態にあった適切な空間の大きさがある。 そういう意味で、「すみっコぐらし」の居場所も人にはなくてはならない空間といえるのだろう。

そういや以前わたしが設計した住宅の話だけれど、広さに余裕のない間取りなのにご主人がどうしても自分の書斎が欲しいというので、あれこれ工夫して2階に6畳程度の書斎をつくったことがある。 数年後その家を訪ねると、吹抜けになった階段下の狭い三角スペースに小さな机と椅子が置いてあったので「これ、何?」と聞くと、「ちょっとしたことはそこでするんだ」とご主人。「書斎があるだろ」と冷やかしてやったら、「なんかそこ落ち着くんだよね」なんて言っていたのを思い出す。 すぐ近くのキッチンに奥さんがいるということも関係してるだろうけど。。。

住宅設計の難しさは、施主や建築家の建て前と本音、いや理想と現実の乖離にあるような気がする。 家を建てたらこのような生活がしたい(施主)、このような生活をして欲しい(建築家)という理想と、新しい家を建てたからといってこれまでに染みついた生活習慣が劇的に変わるわけではないという現実。 いやはや、難しいものだ。
自分の家なんだから、家に合わせる必要はない。 また、誰に遠慮することも見栄を張ることもないだろう。 隅っこ暮らしが快適なら、隅っこ暮らしの家を建てればいいだけの話なのだ。