Architecture
A-026    私がめざす建築は     s a / r a
simple architecture _ real architecture
筒のような空間

ひとが何かを感知する機能は、昔から「五感」といって大まかに五つあるとされている。 具体的には視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚であり、その中でも視覚から得る情報量が最も多く、全体の約8割を占めると言われている。 確かに、耳に栓をしたり鼻をつまんだりして道を歩くのはさほど苦にならないだろうけど、目をつぶって歩けと言われると、恐怖しかない。 それだけひとは視覚に頼っているのだ。
見かけで判断することは昔からたしなめられていたけれど、それを「ルッキズム」と称して批判するようになったのはここ数年のことのように思う。 しかし、そもそもひとは視覚からの情報に偏りがちなのだから、「ルッキズム」に陥るのも仕方ない面もあるのではないだろうか。 あとは理性の問題だ、とは言うものの、悲しいかな、初対面の第一印象をよくする手立ては見かけを良くすることが基本なのだ。

建築についても同じことがいえる。
お洒落な出窓、かっこいい外観、上品な色の建物等々、ひとは視覚的印象で建築を語り勝ちだ。 聴覚や嗅覚・味覚で建築を形容するひとはまずいないだろう。 服装に流行があるように、建築にも流行があると思っているひとは多い。 店舗などの商業建築は世の流行に合わせて模様替えしないと売り上げに影響するため、建築に模様替えを前提とした作り方が求められ、いきおい「張りぼて建築」になってしまうのだ。 そのあり様は建築として非常に無節操ではあるけれど、「ルッキズムで何が悪いの?」と開き直り、「え~い、どうにでもしやがれ!」とやけくその潔さがあるようにも思える。
一方、商業建築ではないけれど、企業がホームページやパンフレットで自社を紹介する際、本社ビルや工場などの社屋写真を載せることが多い。 履歴書のポートレート的な意味合いだろうが、そのほとんどが立派な建物であることを誇示するような写真が使われている。 これなどは、立派な社屋 → 儲かっている会社 → 信用できる一流会社、という実に単純な連想を相手に期待する「ルッキズム」の最たるものではないだろうか。 当然、その建築には「ルッキズム」を満足させる「外観デザイン」が求められる。

では、建築家は建築の「ルッキズム」をどのように考えているのだろう。
多分、否定的な意見が多いのではないだろうか。 なぜなら、建築家は外観などの「形をデザインする」ことにあまり重きを置いていないと思うからだ。 (「思う」というのは、他の建築家のことはよく知らないけれど、不遜ながら、ぼくと同じ考えじゃないかなと「思う」ということです) では、建築家はいったい何に重きを置いて設計しているのか、と問われれば、それは建築家によって違うだろうし、建物によっても違う、としか答えられないけれど。。。

わたしが設計の際に大切にしていることは、「空間」という概念だ。 英語では「space」であり「void」でもあるのだが、ひとが活動したり休んだりするのはすべて「空間」の中での行為であることを鑑みれば、ひとにとって快適で豊かな「空間」をつくるために、「空間」をどのように囲い、どの部分を開放させ、「空間」どうしをどのように連結するかを考えることが大切あるように思う。 そのようにして組み上げた「空間」の外周を面で囲うと自ずと建物の形が現れるわけで、わざわざ「空間」と切り離して建物の「形をデザインする」ことはなく、そこに「ルッキズム」が入り込む余地などないのだ。 われわれもご多分に漏れず視覚的印象で建築を語ることもあれば、施主の要求を満足させるべく外観デザインにも力を注ぐ時もあるけれど、あくまで建築は「空間」で構成されているという原則に基づいてのことなのだ。