Architecture
A-036    私がめざす建築は     s a / r a
simple architecture _ real architecture
雑然とした街並みに白い建築を投入

「街並み」という言葉をよく耳にする。 「美しい街並み」とか「街並みに合った建築」など、普段あまり意識していないけれど、知らない街に行ったときや見慣れた場所に新しい建物ができたときなど、ふと意識したりする。 芦原義信(1,918~2,003 建築家)が著書「街並みの美学」で街並みを問うたのが 1,979 年だけれど、建築家がそれを提唱するずっと以前からその言葉は、たとえば倉敷や金沢の「歴史的(情緒的)街並み」という具合に用いられ、一般化されていたような気がする。 しかしそれらの「街並み」は、歴史的な価値や、旅行で遠路はるばる訪れる価値をもつ、ある意味特権的「町並み」でもある。 今わたしたちが意識する、あるいは意識しなければならない「街並み」は、わたしたちが住んでいる街についてであり、各人がその「街並み」の形成に関わることができる身近な概念なのだ。 建築を建てるひと(施主)のほとんどは、自分の建物をどのようなものにするか、ということだけに関心をもつのだけれど、わたしたち建築家は「街並み」も含めたより高度な観点から建築に取り組まなければならない。 古色蒼然で雑然とした「街並み」に建築を建てることが多い。 このような場合、建築を「街並み」に「同化」させるのか「異化」させるのか、難しい判断に迫られる。 それはどちらでもよいと思うのだけれど、「自閉」してしまわないことが肝心だ。 敷地の周囲に高い塀や壁(それも、無味乾燥なコンクリート打放し! )を巡らし、開口部(窓)や植栽は中庭だけ、外出は玄関から車なので隣近所のひとと立ち話もしない、という自閉した世界は社会や「街」を拒否していることになる。 これではとても「街並み」を議論する余地もない。 たとえゴミ溜めのような街に「白鳥」が舞い降りても、その「白鳥」が積極的に街と関わり合うことが、周囲に「街並み」意識を喚起し、新たな「街並み」形成の第一歩になることができると思うのだ。 なにも啓蒙的なことをするわけでなく、ただそこに建っているだけで、美しい「街並み」形成に働きかけるような、そんな建築をわたしは目指したいのだ。