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● 住まいの色彩コーディネート
色彩コーディネートとは、調和を考えて色を組み合わせることですが、よくその組み合わせを評してセンスが良いとか悪いとか言ったりします。 確かに色彩感覚という言葉もあるように、数多ある色の中から絶妙な組み合わせを選ぶにはそれなりのセンスが必要です。 また、美しいもの見たり、配色の知識を身につけることにより、色に対する感覚が磨かれたりもします。 しかし、色彩のコーディネートを単に色の組み合わせのセンスだけで語るのではなく、選ぶ材料の質感やそれを照らす光、そしてまわりの環境も含めた総合的な見地でとらえるべきだとわたしは思います。
現実に目にする「色」は、多様な関係性のなかで成り立っています。
たとえば光の質やその光があたる対象の材質・テクスチャーだけでなく、大きさ(色の面積)や形状、そしてそのものをとりまく周囲の色など様々なものに「色」は影響を受けます。
また、「気持ち」や「思い入れ」といった色を見るひとの心理も、色の感じ方に大きく影響します。
同じ色でもそれを使う場所(位置)によって印象が大きく異なることはよくあります。
たとえば黒色と白色を壁と天井に塗り分ける場合、壁を白くして天井を黒くするのと、その逆とではその空間の印象がまったく違ったものになります。
色をコーディネートするとき、ひとつの手掛かりとして全体のイメージが重要になります。 住宅の場合なら、どのような住空間にしたいのかという大まかなイメージです。 そのイメージが色のあらゆる関係性にひとつの方向を持たせてくれるように思います。 コーディネートのセンスが良いひとでも、イメージが定まっていなければ建物全体をコーディネートしきれるものではありません。 逆に、しっかりしたイメージさえ持っていれば、後はそのイメージに従って色の組み合わせを決めていけばいいのです。
フランスの象徴派詩人アルチュール・ランボーは、母音であるA・E・I・U・Oそれぞれに色をあてはめ、そのイメージを詩にしています。
たとえば、Aは黒で金蝿のコルセット・影ふかい内海。Eは白で霧・テント・氷山の槍先・王者の白衣装・ふるえる雪柳、というように、母音から湧き上がる色のイメージを書きとめています。
ランボーとまではいかなくても、だれしも色に対してイメージを持っているのではないでしょうか。
青色は海や空といった世界中のひとが共有できるイメージもあれば、「わび」・「さび」といった日本特有のイメージもあります。
場所や時間、あるいは気候や風土といったもので、色のイメージは異なりますし、個人的な記憶や思い入れ、あるいは好みも色に対するイメージに影響します。
私事ですが、色のイメージが共有できない例をひとつ紹介します。
大阪のシンボルでもある通天閣は夜になるとその頂部にあるネオンの色で翌日の天気を知らせてくれます。
晴れは白色、曇りが赤色、雨が青色のネオンが点灯します。でもわたしは、赤色は晴れの太陽、白色は曇り空の雲というイメージを持っているため、いつもこのネオンに戸惑ってしまうのです。
色を決める場合、ある特定の色でなければいけないという必然性はありません。 白色でも赤色でも何色でもよいのです。 確かに赤色はよく目立つため注意を喚起する目的でよく使われる色ですが、信号機の赤が「止まれ」の意味をもつのは、単にそのように決めたからに過ぎません。
住宅の場合も、壁や天井の色を決めるのに制約はありません。ただ外壁の色はある程度社会性を伴うため、街並みを意識した色が要求されます。
周囲にも心を配り、街並みとして街路からその住宅がどのように見えるのかをよく検討する必要があると思います。
街並みと「同化」させるか「異化」させるか、それは建て主や建築家が決定することですが、いずれにせよ街並みを意識すべきでしょう。
街並みから受ける色のイメージを感じ取り、そのイメージをもとに外壁や屋根の色を決めればよいのです。
「同化」は街並みに合うけれど、「異化」は街並みを乱すと思われる方もいるでしょう。
しかし、ただ単に目立てばよいという「異化」は別として、その建物が街並みに刺激や活気を与え、それを起点に街並みがより良くなっていくのなら歓迎されるべきです。
自然がもつ力なのでしょうか、樹木や花を見て悪い印象を持つひとはいません。
一方、建築はひとがつくった造形物です。いくらその形状や色が美しくても、自然のそれにはとても敵いません。
樹木を建物と社会の緩衝材として大いに役立てたいものです。
道路沿いの植栽は、建物を隠すことにより建物全体のボリュームからくる威圧感や色の面積効果を低減させ、街並みを形成する上で非常に大切です。
建物の外壁と違って内部の色を決めるのに社会性はほとんど伴いません。
自由です。
どのような部屋にしたいのか、建物全体のイメージと関連させながら決めていけばよいと思います。
ただ、家具を造り付けにし、気に入った机や椅子を置いたにしても、日常生活のなかで必ず予測できない雑多なものが部屋に置かれたり張られたりします。
そのことを踏まえ、わたしは内装が饒舌であってはならないと考えています。
また、住宅の主役はそこに住む「ひと」でなければならないことを鑑みると、何より「ひと」が一番引き立つような色彩空間が理想ではないでしょうか。
建物が出来上がったばかりの、まだ生活していない状態でいくらセンスよくコーディネートされていても意味がありません。
そういう時は、少し退屈な感じを受けるぐらいの色彩空間がちょうどいいのです。
雑多なものに囲まれた日常生活が始まった時に美しく見える空間が理想です。
色とは「ものにあたった光の反射」であるため、ある色を特定するには非常にあいまいさを伴います。
同じ壁であっても、その壁にあたる光の種類によって壁の色の見え方は違います。
太陽が発する朝と夕方の光が違うように、時々刻々自然光は変化しています。
夜暗くなって照明をつければ、その照明の種類(LEDや蛍光灯、白熱灯)によっても壁の色の見え方は違います。
ものの色はそこに当てる光のことも考慮しなければならない、ということです。
すなわち「色彩のコーディネート」は、「光のコーディネート」でもあり、イメージする空間をつくるための照明計画が必要です。
断っておきますが、ここでいう照明とは照明器具のことではありません。照明器具のランプが放つ「光のあり様」のことです。
照明器具が豪華とかお洒落とかいうのは、また別の次元の話です。
たとえば、壁や天井が真っ白だと冷たい感じを受けますが、白熱灯をつけるとその空間が黄色い光に包まれ、白い壁が温かみのある琥珀色に変わります。
それは実に美しく、白い部屋と白熱灯の組み合わせでしか成し得ない清楚で温かみのある空間をつくります。
一方、観葉植物や植栽の緑は白熱灯の黄色い光では美しくありません。
蛍光灯の白や水銀灯の青みがかった光でないと映えないのです。
色彩のコーディネートでは、色を最も美しく見せるための照明も考えなければなりません。
省エネルギーの観点から、国は消費電力の少ないLEDの普及を促すため、2020年をめどに白熱灯と蛍光灯の生産・輸入を禁止する方針を明らかにしていますが、なんとかならないものでしょうか。
照明とは単に明るさだけを目的とするものではありません。
演色性といって、自然な美しい色に見せる効果は白熱灯が一番優れています。
蛍光灯は論外ですがLEDも未だに白熱灯に及びません。
白熱灯の下で果物は実においしそうに色鮮やかに輝き、ひとの肌は艶のある生き生きした感じに見えるのです。
何がなんでも食卓には白熱灯、とこだわる建築家はたくさんいます。
最後に、わたしの個人的な好みを紹介します。
材料がもつ自然の色が一番美しいと信じているため、できるだけ着色しないように心がけています。
そうすれば、時の経過とともにそれが少しずつ変色していくのを楽しむことができます。
新しいものをわざわざアンティークに見せるため、木の色を濃く着色しているのを見ると、あざとさを感じてしまうのです。
また、不思議なことですが、自然材料であればどのような組み合わせをしても調和が取れます。
「色彩のコーディネート」を放棄できるといっても過言ではないでしょう。
「何も足さない、何も引かない」というウィスキーの宣伝文句が昔ありましたが、自然の材料についても当てはまる言葉だと思います。
そこで生活するひとと同じ時を刻み、年を経ることで、ひととその空間が溶け合い、かけがえのない住宅になると思っているのです。