Architecture
提言_06    私がめざす建築は     s a / r a
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● ローコスト住宅

「ローコスト住宅」という言葉は実に曖昧です。 住宅についての知識の多くを雑誌やテレビの情報番組から得て、ローコストを「シンプル」というトレンドな概念に置き換え、ローコスト住宅にすがすがしいイメージを抱いているひとと、単に建設費が安い、いわゆる安普請というみじめなイメージを想像するひとでは、そのとらえ方に大きな隔たりがあります。 ですから同じ「ローコスト住宅」を建てても、それに誇りを持てるか否かは施主次第といえます。
ここではあえて後者の、本来「ローコスト」という言葉が持つ意味の原点に立ち返って考えてみたいと思います。

まず、お金の話。
わたしが住宅の設計を引受ける際、施主から「お金はいくらでも出します」と言われた経験は、残念ながら皆無です。 ほとんどの場合は「お金はこれだけしか無いのですが・・・」と控え目に言って予算を提示されます。 わたしは少し気を引き締めて設計に取りかかることを伝えますが、施主は自分が思い描いている住宅が果たしてこの予算で出来るのかが心配で不安気な面持ちです。 そこでわたしは、「この予算で出来る建築をつくればいいのですよ。 よい住宅かどうかは予算の多少と関係ありませんから」と言って施主を安心させようとするのですが、それがかえって不安に陥れる場合もあり、なかなかお金の話は難しいです。
当たり前のことですが、5,000万円の予算なら5,000万円の、1,500万円の予算なら1,500万円の建築しかできません。 ただ人間と同じで、お金をかけたからといって必ずよい結果が得られるとは限らず、多少不謹慎ではありますが、そこが面白い、といえるのかもしれません。 また、いかなる条件であってもチャンスがあれば建築家はよい建築をつくりたいと思っていますから、予算の多少で設計の熱意が変わることはありません。

ここで確認しておかなければならないことがあります。
先程「よい建築」と述べましたが、なにをもって「よい」と判断するかです。 ひとによって価値基準は違います。でも、地震や台風に耐える構造で、雨露がしのげ、冬の寒さから身を守ることはいくら建設費が安くても無視できません。 これらは「よい建築」以前の基本条件、あるいは絶対条件といえるでしょう。 もしこの条件だけでいいのなら、かなりローコストで家が建てられます。

しかしローコストを願うひとであっても、先の条件だけで満足するひとはほとんどいないでしょう。 使い勝手と称して、メンテナンスと称して、あるいは必需品と称して、必ずなにかが付加されていきます。結果的に「もの」がふえたり、ものが「高級化」したりすることになり、当然それに対して「費用」が発生するためローコストは難しくなります。
単純なことですが、このことは頭でわかっていても実際に自分の家と向き合ったとき、なかなか簡単に割り切れるものではないのです。 しかし、予算上ローコストにしなければ家が建たないという現実があります。

そこでわたしは「もの」や「高級化」を後回しすることを提案します。
では、まずなにを優先させるかといいますと、それは「空間」です。 そもそも建築は、「もの」の集合体ではなく「空間」で成り立っている、と考えます。お金が無ければ頭を使え、とは常套句ですが、タテ・ヨコ・高さという可変要素で成り立つ「空間」を工夫することで、「よい建築」を目指します。 同じ質・量の建設資材を用いても、その組み合わせ方は無数にあるわけで、一塊の粘土からいろんな形をつくることが出来るように、いろんな「空間」をつくることができます。
ひとの心を癒したり感動させたりする「空間」もあれば、ひとの動きを誘導したり、生活環境をつくり出すのも「空間」です。 普段あまり意識することのない「空間」を施主と建築家が一緒になってつくりだすのです。 これなら建設費のことをあまり心配する必要はありません。

構造や空間が決まれば、次は「仕上げ」です。
この段階で、施主と建築家が目指す建築を共有していることが大切です。 それができていれば、自ずと「空間」を生かす仕上げを選ぶことができます。 高価なものでなくていいのですが、できれば自然の材料を選びたいものです。 なぜなら、使えば使うほど味が出てくる「仕上げ」だからです。建物ができたときが一番美しく、時が経つにしたがって汚くなるような仕上げは避けたいものです。
「仕上げ」を単に「見かけ」という意味でとらえるひともいます。 そういうひとにとっては、建築は創造的なものではなく、単なる経済行為の消費でしかありません。 支払った分の対価を求めるだけならいいのですが、虚栄心から予算以上に見せようと躍起になり、「見かけ」にお金をたくさん使います。 その分隠れて見えないところはないがしろにされ、結果的にアンバランスな建築になってしまうのです。
サン・テグジュベリ「星の王子さま」にある「大切なものは目に見えない」という言葉は、建築にとっても真理です。 基礎など構造の大切なところはほとんど隠れて見えませんから。

無駄なものを可能な限り排除する勇気も必要です。
極端なことを言えば、食べて寝て、そして先に挙げた建築の基本条件を満足している小さな家があれば人間は生きていけるわけで、これら以外のことはすべて贅沢(無駄)と言えなくはありません。 多分、災害等で必要に迫られたときは決断するのでしょうが、普段の何不自由のない平凡な暮らしのなかで、無駄なものを見つけ出し、それを排除することは難しいかもしれません。
しかしこの機会に、生活していくために自分にとってかけがえのないものとは一体何なのかを考えてみては如何でしょうか。 そして出来るだけ「もの」を減らすように心がければいいと思うのです。

では、無駄なものをそぎ落とし、住宅をスリムにするだけでいいのでしょうか。
住宅はひとが生活するための建築ですから、やはり基本は「ひと」なのです。 住宅をシンプルでローコストにするのなら、ひともシンプルな生活や生き方をすることが大切です。 逆に言えば、そのようなひとでないとシンプルな住宅やローコスト住宅に価値を見出すことは不可能でしょう。
猫の額ほどの敷地にローコストで家を建て、余ったお金で最新の設備や電化製品をあまた購入し、高級車を乗り回すのもひとつの生き方ですが、むかし欧米から揶揄された「ウサギ小屋に住むエコノミック・アニマル」そのもののように思え、電化製品と車という昔の大衆消費文化を未だ引きずった生き方にローコスト住宅の意味を重ねるのは難しいように思います。 仕上げのところでも述べましたが、ライフスタイルも含めた総合的なバランスが大切です。

最後に、ローコストという概念に「時間軸」を与えてみましょう。
たとえば、1,500万円で建てた住宅と3,000万円で建てた住宅の初期費用は明らかに前者のほうが安く、確かにローコストな住宅といえます。 しかし、建ってから50年の間に補修や改修でかかる費用なども加味すると、どちらに多くの費用がかかるかは一概にいえません。
建設費用(初期費用)が安い=建物にかかる費用が安い、とは単純には言えないのです。 本来ローコスト住宅とは、「建設費用が安い」住宅ではなく「建物にかかる費用が安い」住宅のことでなければならないとわたしは思います。

しかし問題は、一般的に初期費用にあまりお金をかける余裕がない、ということです。
これを解決するには、まず建築の各要素を「時間」の経過と共に、「変化するもの」と「あまり変化しないもの」に分けて考えるといいでしょう。 そして「変化するもの」よりも「あまり変化しないもの」に初期費用としてお金をかける割合を大きくするのです。
具体的に説明しますと、建築の構造は非常にしっかりしたものとし、50年、100年耐えうるものにします。 しかし、家族構成の変化や設備機器の更新は避けることができないため、間取りや設備を簡単に変更できるようにしておけばいいのです。
これはいわゆるS I住宅(Skeletonスケルトン/骨格・Infillインフィル/内装・設備)といって、昔から集合住宅などによく用いられる考え方です。 初期費用をあまりかけることができないローコスト住宅にも、この考え方が応用できます。
初めはしっかりした「箱」や「骨(スケルトン)」だけをつくり、インフィルは生活できる最低限にして初期費用を抑えます。 将来お金が貯まると少しずつインフィルを充実させ、家族構成が変わればインフィルを変更する、という具合です。 住むひとの事情や設備の変化に合わせて住宅を変えていくのです。

ひとくちに「ローコスト住宅」といっても、そのアプローチの仕方はいろいろありますが、よい住宅をつくるのにコストはあまり関係ないということを少しは理解して頂けたのではないでしょうか。
生き方や日々の暮らし、そして建築、これらの総合的なバランスがなにより大切だと思います。 「ローコスト住宅」を以上のような考え方でとらえなければ、真の意味での「ローコスト住宅」はできないとわたしは思うのです。