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そ の 他    O_017
興味をもったことなど・・・
建築家・村野藤吾、91歳の姿
1,982年、新高輪プリンスホテルの工事現場にて

世は高齢化社会である。 日本でいえば、90歳以上の人口が 1980年は 12万人(総人口1億1700万人)であったのが、2021年には 250万人(総人口1億2550万人)を突破したという。 平均寿命は女が 87.57歳、男は 81.47歳(2021年)で、2050年には 90歳になるかもしれないという。 太古の昔から人間は「不老不死」を願い、医学はその妙薬を求めて進歩したと言っても過言ではないだろう。 確かに、いま自分がここに「ある」という事実が無くなってしまうことへの恐怖が、「不死」の希求につながることはよく理解できる。 しかし、「老」についてはどうだろうか。 どうも「死」に近づくイメージだけから忌み嫌われているのではなさそうだ。 そこには、生きものとしての活動期が過ぎ、身体が衰え、「なにも生産しない無用な不潔で醜い存在」としての「老」があるような気がする。 当事者である高齢者の間においても、元気でボケていない老人がもてはやされ、みなそうあるように努めることが、あたかも良い事のように思われている。 それは「老いたくはない」という意味で、忌み嫌うことと同じであろう。 しかし、「老」を「立ち向かう」対象としてではなく、「受け入れる」べきものとしてとらえなければ、問題はなにも改善されないような気がする。 「老いる」ことに意味や価値を見出し、「なにも生産しない無用な不潔で醜い存在」を当たり前のように「受け入れる」、いや「受け入れたい」という社会通念が必要なのだ。 それは、「老人」を単に「古い人 Old Man」と呼ぶ欧米の若者至上主義ではなく、「老」という字に「敬う」意味を持たせた古代中国の思想にヒントがあるような気がするのである。 ちなみに日本語の「老眼」は、中国では「花眼(ホアイェン)」という。 花がぼや~っと美しく見える目になったということらしい。