Essay 徒然


ほんとうに出会ったものにわかれはこない

これはぼくの好きな詩人のひとり、谷川俊太郎の「あなたはそこに」という詩にでてくる印象的なフレーズである。 言葉として認識する以前の、日頃漠然と感じていることや思いを、詩人はものの見事に言葉で表わしてくれる。 それも小難しい表現ではなく、子供にもわかるやさしい言葉で。 しかし言葉や表現はやさしいけれど、その意味することは深い。 一度聞いたら生涯忘れないインパクトも内に秘めているのか、ぼくはなにかの拍子にふと、この言葉を思い出したりするのである。

「ほんとうの出会い」とはなんだろうか。
出会いにも「うその出会い」と「ほんとうの出会い」があると考えるべきなのだろうか、あるいは「出会い」とはとても呼べない「出会い以前のもの」があると考えるべきなのだろうか。
電車で見知らぬひとと乗り合わせたことを「出会い」とは呼ばないだろうし、メーカーのひとが営業でぼくの事務所に来たとしても、それは「出会い」とは呼べない。 たとえそのひとが大変個性的なひとであり、いつまでもぼくの「記憶」に残っていたとしても、である。 また、日々の生活でよく会って話をするからといって、そのひとと過去に「出会い」があったと意識することもまずない。 それに、同じひとと長い時間を共有していたとしても、そこに「出会い」があったとは必ずしも言えないのかも知れない。

とすると、どうも「出会い」とは出来事や事柄をいうのではなく、時空を超えたひとの「心」の問題であるような気がする。 誰かと互いに「惹きつけ合う心」や誰かに「惹きつけられる心」がひとに生じたとき、その心の作用を「出会い」と呼ぶのではないのだろうか。
ずっと後になって心の作用が働く場合もあり、そのときは過去を振り返ってみて、あのときがあのひととの「出会い」であったんだ、などと言えるのである。
また「出会い」は異性に対してだけあるものではなく、男同士や女同士の同性に対してもあるだろうし、動物や植物、あるいは「もの」に対してもきっとあるに違いない。 それは他人からとやかく言われる筋合いのものではなく、まったく個人的な「心」の問題なのではないかとぼくは思うのだ。

詩人 谷川俊太郎は、そのような「出会い」にわかれはこないという。
それは、そのひと(あるいは、もの)にまつわる過去の出来事が、長く記憶されているということではないだろう。 いつも「心」のなかにそのひと(もの)が居て、そしてその状態がずっと続く限り、そのひと(もの)とのわかれはこないという意味だと思う。
いままで居たひとがどこかに行(逝)ったり、在ったものが無くなったりすれば、現実としてその出来事は「別れ」ということになるのだけれど、しかしひとの「心」のなかにはそれとは別に、そのひとだけの世界が確かにあるはずだ。

秋深し。
ぼくはとりとめもなく、今こんなことを考えている。
ほんとうの出会い、ぼくにこれまで何回あったのかなぁ

*

あなたはそこに   (谷川俊太郎)

あなたはそこにいた 退屈そうに
右手に煙草 左手に白ワインのグラス
部屋には三百人もの人がいたというのに
地球には五十億もの人がいるというのに
そこにあなたがいた ただひとり
その日 その瞬間 私の目の前に

あなたの名前を知り あなたの仕事を知り
やがてふろふき大根が好きなことを知り
二次方程式が解けないことを知り
私はあなたに恋をし あなたはそれを笑いとばし
いっしょにカラオケを歌いにいき
そうして私たちは友だちになった

あなたは私に愚痴をこぼしてくれた
わたしの自慢話を聞いてくれた 日々はすぎ
あなたはわたしの娘の誕生日にオルゴールを送ってくれ
わたしはあなたの夫のキープしたウィスキーを飲み
私の妻はいつもあなたにやきもちをやき
私たちはともだちだった

ほんとうに出会ったものにわかれはこない
あなたはまだそこにいる
目をみはり私をみつめ くりかえし私に語りかける
あなたとの思い出が私を生かす
早すぎたあなたの死すら私を生かす
はじめてあなたを見た日からこんなに時が過ぎた今も

2005年11月5日



− * − * − * −




「先生」と呼ぶ声がしたので、振り向いた

するとそのひとは小走りにぼくを追い抜いて、行ってしまった。 なぁーんだ、ぼくじゃないのか。。。と思った瞬間、自己嫌悪に陥った。 もう 10年ほど前のことである。

建築家は「先生」と呼ばれることが多い。 ご多分に漏れずぼくもそうであり、いつしかそれが当たり前のことのように思っていたのかもしれない。 「先生」と呼ばれ、それを自分のことだと思い(あるいは無意識に)振り向くなんて、あまり褒められたことではない、とぼくは思う。 だから、そのとき振り向いた自分がとても嫌なのだ。

ぼくが設計事務所で働き始めたのは22歳のときだった。 まったくなにも知らないで建築の世界に飛び込んだため、図面の描き方以前の線の引き方から教えてもらわなくてはならなかった。 セメントとモルタルとコンクリートの違いさえ知らないのだから、今にして思えば、よくぼくを雇ってくれたものだと思う。(感謝)
なんにも知らないそんなぼくであっても、その事務所に出入りしていた工務店の方や飛び込み営業で来るメーカーの方たちからは「先生」と呼ばれていたのだ。

「先生、図面描けるようにならはりましたか?」

「先生はまだ若いからよろしいなぁ」

なんて、ちょっとおかしな会話が日々なされていた。 はじめは「先生」と呼ばれることにいちいち過剰反応(多分、当たり前の反応だろう)し、「先生」と呼ばないで欲しいとお願いしていたのだけれど、何回も何回もそのようなことがあると、だんだん邪魔くさくなり、いつのころからか "自然に" 対応するようになってしまった。 いまでは年配のひとから「先生」と呼ばれても、なんとも思わない "最低で最悪" のぼくである。

「先生」と呼ぶほうは、なにも相手に敬意を持ってそう呼んでいるのではないだろう。 名前を知らない場合もあるだろうし、知っていても名前で呼ぶと親しすぎて失礼な感じがするし、適当に「先生」と呼んどきゃいいや、という程度だと思う。 たとえばそれが町工場の経営者なら「社長」であり、会社なら「部長」や「課長」となるだけだ。 要するに、便利な呼称なのだと思う。 だから呼ばれるほうも深く考える必要はないのかもしれない。

しかし、「先生」ということばにはなにかが潜(ひそ)んでいるような気がする。 上手くは言えないが、仕事を「してあげる」といった上から目線の思い上がった気位を感じさせるのだ。 「先生」と呼ばれるぼくたちは、このことを常に意識しておかなければならないだろう。
逆手にとって、おだてたり揶揄する場合も「先生」が使われたりするのだけれど。。。

「先生」と呼ばれる職業はどんなものがあるのだろうか。
まず思い浮かぶのが学校の「先生」である。 幼稚園、いや 0才児が通う保育園から「先生」がいるわけだ。 3歳くらいになると保母を「先生」と呼んでいるのかもしれない。
学校の「先生」はぼくたち建築家と違い、堂に入ったもので、「先生のあとについて来なさい」などと、自分のことを躊躇なく「先生」と言う。 当然、自分は「先生」だと思っているのだろう。 ひとに物事を教え導く、まさしく「先生」の元祖である。 呼ぶほうも恐れ多いのか、本人の前でなくとも、なんとなく「先生」という呼称を付けずに名前だけで呼ぶのがはばかられる。
そういえば今年の春、旧友たちと中学時代の「先生」を囲んで食事をしたのだけれど、この年になってもやはり名前では呼べず、つい「先生」と言ってしまっていた。

医師に対しても自然と「先生」と言ってしまう。思い返しても、これまで友人の医師以外は名前で呼んだことはない。 勇気がいるだろうなぁ、面と向かって名前で呼ぶのは。(笑) しかしこちらは、本人を前にしていないときは結構(親しみを込めて)名前で呼んだりする。学校の「先生」ほど威光を放っていないのかもしれない。

弁護士や作家、漫画家等も「先生」である。このように考えれば、一芸に秀でたひとや専門職のひとに対し「先生」という呼称を使うことが多いみたいだ。 となると、別に呼ばれたからってどうってことはないのだけれど、一生「先生」と呼ばれることのないひともいるわけで、いや、そういうひとのほうが圧倒的に多いはずだ。
人生の大半を「先生」と呼ばれて生きてきたひとと、一回もそう呼ばれたことがないひととでは、やはり人生観に違いがでるのであろうか。。。 たかが呼称だけれど。

「先生」か。。。調子に乗るんじゃねぇぞっ!

2005年10月15日



− * − * − * −




先週、日本で死刑が執行された

小学校乱入児童殺傷事件の宅間守・元死刑囚らに昨年9月死刑が執行されて以来約 1年ぶりだという。 今回の場合、5年前に最高裁が「動機に酌量の余地はなく、若い女性2人を強姦(ごうかん)したうえで殺害した結果は重大で、被告が反省しているなどの事情を考慮しても一、二審の量刑判断はやむを得ない」と上告を棄却したことにより、死刑が確定していた。

死刑の存廃が議論されて久しいと思うが、日本ではいまだ「死刑は合憲」とされている。 世界に目をやると、法律上・事実上の死刑廃止国は 120ヶ国、存置国は 76ヶ国であるらしい。 しかし、いわゆる先進国で死刑を認めているのは米国と日本だけであり、それに中国やインドが加わる。 欧州人権条約のあるヨーロッパ諸国は軒並み廃止している。
世界における死刑執行の 9割は中国で行われているらしく、昨年の執行は確認されただけでも 3,400人、未確認を加えると 1万人以上と推定されており、ただただ驚愕するのみ。 死刑の存廃にはお国柄や国民性、あるいは宗教が大きく作用しているのであろう。

さて、日本で認められている死刑の存置意義は 2つあるといわれている。
まず、一般予防論。
「刑罰はそれ自体存在することで社会全般に威嚇(いかく)効果があり、それにより犯罪を予防する」
次に、特別予防論。
「犯罪者の教育・更生の目的で刑罰を犯罪者に科すことで、犯罪者が再犯することを予防する。死刑の場合は再犯の可能性をなくする」

一般予防論に対しては、死刑を廃止した国の廃止前後の犯罪件数を比べれば具体的に反論できるそうだ。
たとえばカナダでは、人口 10万人当たりの殺人率が死刑廃止 1年前は 3.09件だったのに、その 5年後は 2.41件、27年後は 1.73件と大幅に減少したという。 時代背景もあるため、これは多分極端な例だとは思うが、死刑を廃止することで犯罪が急激かつ深刻に増えることはない、というのが世界の共通認識であるようだ。

特別予防論はどうだろうか。
確かに犯罪者を処刑することは、かれによる再犯の可能性を「無」にする最も確実な方法であろう。 しかし、再犯の可能性を限りなく「無」に近づけるよう努力するのではなく、「無」してしまうことは更生の可能性も「無」にしてしまうことであり、あまりにも短絡的であるようにも思う。
それに先に挙げた今回の死刑で、最高裁が「被告が反省しているなどの事情を考慮して」といいながら死刑を執行したことは、特別予防論の主旨を逸脱しているような気がする。 凶悪犯罪を犯すと、教育による更生が端(はな)から期待されないのが今の日本の現実なのだ。

被害者はどうか。
被害者はすでに殺されており、無念だろうけれど、なにも主張することはできない。 では被害者の身内や友人はどう思っているのだろう 犯人を殺して復讐してやりたい、と思うひともいるだろうし、事件のことは早く忘れたいというひともいるだろう。 また犯人を許すひともいるかもしれない。
ここで大切なのは、第三者が勝手に被害者やその身内の心情を推し量って犯罪者を断罪しないことではないだろうか。 かつてのオーム真理教や和歌山毒カレー事件の被告に対する第三者による言いたい放題の罵言は、聞くに堪えないものがあり、顔の見えない大衆心理の恐ろしさや愚かしさを感じ、ぼくは距離を置きたくなる。

* * * * *
長谷川君は事件当時、弟の雇い主だった。 一審の法廷で私は検事に「極刑しかないでしょ」と言った。 事件は弟を奪い、私の日常を崩壊させた。 「すべて長谷川君のせいだ」と憎しみが募った。
初めて面会したとき、彼は「申し訳ございませんでした」と言った。 謝罪の言葉は手紙でも読んでいたが、対面して相手の姿を見ながら言葉を聞くのは重みが違った。 謝罪し償おうとしている本人を目にして私は初めて、安堵し癒されるような感覚を覚えた。
許したのではない。 だが面会することで、自分の心が開放される端緒をようやくつかんだ気がした。 殺人をしたあと、ひとはどのような償いをできるのか。 私にもわからない。 ただ彼が償いの意味で絵を描き続けていると知ったとき、わたしはその思いを信じたいと思った。
生きてこそ償いは可能なのではないか。 死刑はあまりに短絡的な解決策なのではないか。 少なくとも私は、(長谷川君の)死刑が執行されたことで心が楽になるどころか、再生への足がかりを失った気がした。
街頭で死刑反対の発言をすると、「遺族感情を考えたことがあるのか」と言ってくる人がいる。 被害者には、犯人の死刑を願うような生き方しか許されないのだろうか。 「肉親を殺した相手をなぜ君付けで呼ぶのか」と聞かれたこともある。 「あなたは私以上に彼を憎んでいるのですか」と尋ねたい気がした。
(弟を殺された原田正治さんの投稿 / 6月4日付 朝日新聞・朝刊)

この原田さんのような意見は、多分少数派であると思う。 しかし、このようなひともいる、ということは事実であり、ぼくは少なくとも、長谷川 ”君” が償いの意味で絵を描いているのを知った原田さんが「その思いを信じたいと思った」ところに、人間の「救済と尊厳」という一条の光を見たような思いがして、幸せな気分になったのである。

2005年9月19日



− * − * − * −




若いこと、貧乏であること、無名であること

ニューヨーク近代美術館 MoMA でアニメ映画 「ハウルの動く城」が上映される際、宮崎駿監督が若いアニメ作家に向けて「若いこと、貧乏であること、無名であることは創造的な仕事をする三つの条件だ」という毛沢東の言葉を贈ったという。(6月11日付、朝日新聞)
毛沢東は「真の革命を成すものの条件」としてこの三つを挙げていた(多分)と思うが、それを「大きな仕事」とか「創造的な仕事」などと読み替えながらこの言葉は現代に生き続けている。
ぼくはこの記事を読み、ふと昔のことを思い出した。

この言葉と初めて出合ったのは五木寛之のエッセイだ。 いまから 30年も前のこと。 「風に吹かれて」か「地図のない旅」か、はたまた「ゴキブリの歌」か、そのエッセイが入った本のタイトルは記憶にない。
当時五木寛之は若者の間でひろく読まれていた。 1,960年代後半から 70年にかけての「熱い」時代が終わり、世の中全体にシラケた空気が漂っていたころだ。 「根無し草」の五木がもつ中間色の優しい(優柔不断な)雰囲気がその時代に合っていたし、40代のオッサンにもかかわらず長い髪を無造作に手櫛(クシ)でオールバックにしたかれの容姿も人気に影響していたと思う。

代々医者の家系である元金沢市長の娘(多分、彼女も医師だと思う)と結婚し、どちらかといえば、30代半ばまで奥さんに食べさせてもらっていた「若くなく、貧乏でもなく、無名でもない」五木が、この毛沢東の言葉をどのような意図でエッセイに書いたのか忘れてしまったが、それを読んだ「若くて、貧乏で、無名」のぼくは、たいそう勇気づけられたのである。
誤読していたかもしれないけれど、若い誰もが自分のことだと思わせるこの言葉には、ひとを平等にあたたかく肯定する不思議な魅力がある。
当時のぼくは、何をするでもない「ただ今あるこの自分」がそのまま認められているような気がして、この言葉を何度も何度も心で反芻したものだ。 何かを成すにはこうすべきだとか、今頃そんなことしているようでは遅すぎる、などという叱咤激励も良いかもしれないが、ぼくには先の言葉のような「ゆるい」肯定のほうが性(しょう)にあっていたのだろう。 心が疲れているときはなおのこと。。。

ぼくがその五木のエッセイを読んだ数年後、長い髪をポマードでオールバックに固めた弱冠 29歳の矢沢永吉が「成り上がり」という自伝を出版した。 糸井重里が矢沢にインタビューし、それを自伝風にまとめ上げたものであるが、なんとこれが当時 100万部を超す大ベストセラーになったのである。
シラケたヒーロー不在の時代に、「若くて、貧乏で、無名」であった矢沢が毛沢東の言葉どおり「大きな仕事」を成したのであり、あの頃のぼくたち若者に夢を抱かせたこの本の功績は大きい。 また、「成り上がり」という自嘲気味のタイトルにも好感が持てた。
しかし同じオールバックの髪型でもそのありようが違うように、矢沢には五木のもつ「ゆるさ」は一切なく、自伝には馬車馬のようにひたむきに走り続けなければ成り上がれない現実が示されており、「ただ今あるこの自分」だけではとても叶わない気がして、ぼくはしょげてしまった。 「貧しさ」においても、矢沢にはとてもかなわなかったし。。。

若いこと、貧乏であること、無名であること

この言葉を聞くと甘酸っぱい懐かしさとともに、なぜか嬉しくなる。
ぼくは今の自分自身をその言葉の中に置き、そして不思議だけれど、もう一度自分を奮い立たせようとする意志がどこからともなくみなぎってくるのを感じるんだ。

2005年9月5日



− * − * − * −




大阪のこと、徒然

ぼくは大阪で生れ育ち、名古屋・京都を経たものの、今また大阪で暮らし働いている。 そういうぼくにとって大阪という街は特別なところではなく、日常としてごく普通の街である。
大阪は「汚い街」だとよくいわれるけれど、普段それを意識することはない。 たまに東京へ行くと街路樹が多くてゴミの少ないきれいな街だと感心し、そこで初めてその対極としての大阪を意識することになる。 しかし大阪での日常に戻ればすぐにそんなことは忘れ、なにも意識せずに日々過ごしているのだ。
* * *
大阪全体に「きたない」「こわい」「きけん」というイメージがなお強い。 札幌に店を出すとき、「大丸は大阪から来たと言わない方がいい」と冗談半分に言われました。
大丸 会長 / 奥田 務 (6月11日付、朝日新聞)
* * *
自分が生まれた街や住む街のことを、まわりから悪く言われることは誰しも気分のいいものではない。 開き直ってか、大阪の悪い面を強調する大阪のひともいるけれど、決して本心からそう思っているわけではない、はずだ。
しかし自虐的に見せるその行為がかえって、本心が窺い知れないという狡猾なイメージをひとに与えてしまうこともあり、なかなか難しい。 大阪のひとの素直でない(ひねくれた)そのあたりの心の「機微」は、大阪以外のひとにはわかりにくいかもしれない。

       「わし、アホでっしゃろ。みんなわしを笑ろたってや」
       (わたしは、バカです。みなさんわたしを笑ってください)

標準語で書くとそれこそあり得ない発言に思えて笑えるが、この言葉の意味するところは、バカな奴だとみんなから笑われたいということではなく、ひとからバカと思われるようなことをしてしまった自分への「照れ隠し」である。 それに、ひとから指摘される前に自分で「アホ」と言ってしまったほうがダメージが少なくて気が楽だ、という計算も無意識に働いているのかもしれない。 自分自身をひとより低い位置に「置く」ことに抵抗はないが、ひとから「置かれる」のは嫌だ、ということだろう。
いずれにせよ、自分自身を蔑(さげす)むには、また自力で元の位置に戻れる「強さ」を秘めていなければならず、むかしよく言われた「大阪のド根性」とは、この「強さ」のことなのかもしれない。 いまの大阪のひとにこの「ド根性」があるかどうかは知らないけれど。。。

以前ラジオで東京出身の山本コータロー(元フォークシンガー)が、小学生の頃の思い出話をしていた。 家庭科の時間に、手のひらにのせた「冷やっこ」を包丁で切る実習があったそうだ。 包丁を垂直に降ろすだけでよいのに、ある生徒が包丁を手前に引いて手を切ってしまい、白い「冷やっこ」が血で赤く染まったという。

       「バカなやつだねぇ~。
           赤い冷やっこなんて初めて見たよ、あっはっは~っ」

大阪人のぼくは、この手の「笑い」にどうも抵抗がある。 本人が手を切って「わし、アホでっしゃろ。みんなわしを笑ろたってや」というのならならまだ笑えるのだけれど、かれはひとの失敗を「笑いのネタ」にしている。 自分ならそんなバカなことはしないよ、とでも言いたげに。。。
もしこれを「東京の笑い」と定義づけたら東京のひとは怒るだろうか。
このような視点で大阪と東京のお笑い芸人を見ていると、交流が盛んになりその違いがなくなってきているとはいえ、「自分がボケて笑わせる」大阪と「バカな出来事を取り上げて笑わせる」東京という違いがあるように思える。 大阪はやはり、「わし、アホでっしゃろ」なのだ。

井上章一というぼくと同世代の学者がいる。 かれには「美人論」や「霊柩車の誕生」という面白い著書もあるのだけれど、最近「性欲研究会」なるものを真面目に発足させ、早速「性の用語集」を出版した。 著者は「性欲研究会」ではなく「関西性欲研究会」ということになったそうだ。 東京の出版社が「好色性が増すから」という理由で、性欲研究会に「関西」を付け加えたという。

「首都圏は笑いとスケベの "道化" を関西にもとめている」

とは井上章一の弁。
またそれをネタに、面白おかしく、そして自虐的に喧伝するのが大阪、あるいは関西ということになるのであろう。
しかし本人はしたたかなつもりでも、結局そういうイメージを全国に撒き散らし、それが固定化され、そのイメージの中でしか活動できなくなってしまっている大阪の現状は、やはりなんとかしなければならないとぼくは思うのだ。

2005年8月31日



− * − * − * −




さみしい気持ちになった時には
むこうの海岸で水着になって
お日様に体を見せつけてやれ
言葉を越えているはずだ
むこうの海の水も冷たいばかりじゃないだろ?
--「チエちゃん」井上陽水 --

ひとの行為が言葉を越えていることはよくある。 もう何年も前のことだけれど、毎朝ぼくに元気を与えてくれていたひとがいた。 名前も知らなければ、顔も良くわからない。 しかし、ぼくに元気を与えてくれていたことは確かだ。 「頑張れ!」とか「元気でいこう!」などという言葉より何倍も。。。

朝、事務所に向かう電車を駅のホームで待っていると、向かいに見える線路沿いの道路をいつも決まった時間に駅に向かって歩く若い女性がいた。 50~60m離れているから詳しくはわからないし、またそのくらい離れていたからこそ彼女もひとの視線を感じなかったのだろう。
毎朝右手の木陰から彼女が現れていたのだけれど、その颯爽とした「歩きっぷり」を始めて見たときは、思わず「カッコいい~っ」とつぶやいた。
顔は少し上向き加減で背筋はピンと伸ばし、腕を水平になるくらい後ろにも大きく振り、サッサッサッと長い脚でリズムよく歩いていくのである。
遠くでその姿を見ていると、一日の始まりだというのに、疲れの抜けないだるい身体とふやけた精神をもつ自分自身がなんだか無性に恥ずかしくなり、思わずあごを引き、背筋を伸ばして、「よし、今日も元気にいこう」などと気を引き締めるのだ。
ほんの10秒程度でぼくの視界から消えてしまう彼女ではあったけれど、いまでも街を歩いていると、ぼくは時々彼女のあの「歩きっぷり」を思い出し、出来るだけ背筋を伸ばして颯爽と歩くように心がけているのである。

一般的な職人のイメージは寡黙だけれど、饒舌なひともいる。
以前リフォームの一環で屋根瓦の葺き替え工事があった。 そのとき工事をした親方の饒舌さには驚いた。 こちらがひとこと言うと、三言も四言も返ってくるため次に言葉を挟む機会がつかめない。 こうなると、ひとと話すのがそれほど得意でないぼくは、つい黙ってしまう。
この親方は工事前、施工写真を毎日撮ってファイルに整理して提出します、と言っていたが、結局しなかった。 約束の時間に現れないことも度々あったし、施主に必ず連絡する、と言いながら連絡していないこともあった。 工事が終わり、ひと月後に点検に来ます、と言っていたが、3ヶ月たった今でも来ていない。
ここまでくると、ぼくの理解をはるかに越えてしまって、よくわからない人物、という評価で記憶されることになる。

しかし、ぼくのこの親方に対する「気持ち」はなぜか違うのだ。 好きか嫌いか問われれば、好き、となる。 それは彼の饒舌をはるかに越える「仕事ぶり」がぼくにそのような感情を持たせるのであろう。
確かに、施工写真の提出や1ヶ月点検は大切なことだし、ひととの約束を守ることは社会人として最低限のマナーである。 しかし「そんなことだけ」は抜かりなくやるけれど、本来の仕事がさっぱり出来ないひとが多いこともぼくは知っている。
要領というか、体裁だけ整える術をいくら心得ていても、またそれで評価される薄っぺらい今の社会ではあるけれど、やはり「本物の仕事」には到底及ばないような気がする。 ぼくにとって、そして施主にとって、その親方は「本物の仕事」をしてくれたんだ。 それで充分、あとはなにも言うまい。

工事の初日、ぼくは恐る恐る高い屋根に上って、古い瓦を撤去し、その下に敷いてある板(野地板)を新しいのと交換する作業を見ていた。
親方は軽々とあっちこっちと屋根の上を飛び回り、散らばって作業している十数人の職人に次々と的確な指示を与えている。 ひとつの作業が終わりかけるとすかさず次の段取りを伝え、なれない職人には応援を手配し、材料が足りないとみると下で待機しているものにそれを伝え、時には冗談を言ってみんなを笑わせる。 ずっと、しゃべりっぱなしだ。
ぼくはそれを見ながら、心底思ったものだ。

「職人って、カッコいいなぁ。。。」

*
今日、8月15日は、終戦記念日である。
先の戦争だけでなく長い人類の歴史を振り返り、ぼくたちは争いで多くのひとを亡くし、また殺してきた、という事実をしっかり受け止め、もういい加減こんなことはやめにしたいと、みんなが思えばきっと出来るはずだ。
そういえば、あの John Lennon も言ってたじゃないか

War is over, if you want it.

2005年8月15日



− * − * − * −




白内障の手術をした

と言っても、手術をしてかれこれひと月以上になる。 5~6年前から左目の調子が悪くなり、視力の低下が気になりだした。 パソコンを使い始めた時期だったし、パソコンのディスプレー(画面)をぼくは何故か左寄りに置いているので、左目が悪くなったのはそのせいだと疑った。
右目を閉じて左目だけでものを見ると、なんとなくかすんでいる。うっとうしいし、不安だ。 そこで、近くにある大学病院の眼科で診てもらうことにした。 3~4年前のことである。

自慢じゃないが、ぼくは子供の頃から目がすこぶる良かった。 身体検査で視力を測ると、両目とも 2.0 である。 とにかく細かい文字がよく見えた。
腕時計をしないかわり、すれ違うひとの腕時計を盗み見て時刻を知る特技を秘めていたし、4~500メートル離れた信号機を見て、交差点に着いた時にそれが青に変わるよう歩く速度を調節する高度な技術も備えていた。 とにかく、自慢の目、だったのである。

眼科の診療所のことを大阪では「めいしゃ(目医者)さん」という。 「歯医者さん」に倣ったものだろう。 「さん」という敬称をつけるところが、よい。 耳鼻科の耳の方は「みみいしゃ(耳医者)」と言い、敬称をつけることはない。 多分、言い難いからだろう。「鼻医者」とはなぜか言わない。 その場合は耳鼻科と言っている。

さて、大学病院の眼科で診てもらった結果が左目白内障。
若い医師は「どうしてでしょうねぇ。。。」と首をかしげる。 白内障のほとんどは老年性のもので、40代半ばのぼくには当てはまらないらしい。 外傷やステロイド(湿疹の薬)が原因となる場合もあるそうだけれど、それもぼくには当てはまらない。
ただ、ぼくの白内障はそれほどひどくはなく、まだ手術する必要はない、という医師の意見であった。 ぼくはそれに従い、近くの F 眼科で 3ヶ月に 1度程度の定期健診をすることにした。

今年の春ころから細かい文字が見づらくなってきた。
新聞の文字はほとんど読めない状態。 仕方ないので、どうしても読みたい記事はわざわざ 2倍に拡大コピーして読んでいた。 本は読んでいない。
仕事で一日中向かい合っているパソコンの文字も読めず、それもコピーしてワードに貼り付けたあと、拡大して読む、といった状態だ。 多分、作業効率は半分以下に落ちていただろう。

我慢も限界ということで、F 眼科の U 医師(女医)に相談すると、白内障自体はさほどひどくはないのだけれど、無意識に左目をかばって右目 を酷使していたせいで、右目の視力が急激に落ちているとのことだった。 そして、いつも目をクリクリさせている U 医師が伏目がちになり、申し訳なさそうに、「少し老眼がはいっています」と小声でぼくに告げた。 老眼か。。。
U 医師の奨めもあり、ぼくは白内障の手術をすることにした。

手術は天満にある F 眼科の本院でした。 眼科は「女の園」だ。 看護婦をはじめ院長先生に至るまですべて女。 院長の F さんはぼくより2~3年下の女性で、てきぱきと仕事をこなす元気印のひとである。 毎週火曜日の 12時から 17時までを白内障の手術に当て、15~20人の手術をこなしているという。 今回、ぼくもそのなかのひとりになるわけだ。

手術の 2週間前に説明会があるというので、当然のごとくぼくは参加した。 しかし来ていたのはほとんどお年寄りで、しかも女性ばかり。 仕事を休んでまで参加しているのはぼくだけのようだ。
手術内容をビデオで紹介した後、看護婦による説明があった。 ぼくはといえば、かわいい看護婦の顔に見とれて、話は上の空。 目薬を差してもらう時も、目を閉じて口をあける始末。 居心地がすこぶる良い。
よくわからないけれど白内障の手術というのは、目の水晶体の中にあるゼリー状のものが白く濁っているので、それを吸出して新しいゼリーと入れ替え、人工レンズで蓋をして終わり、ということらしい。

仕事の関係で出来るだけ遅い時間を希望していたためか、16時半からの手術に決まり、説明や目の消毒・麻酔等するため、手術の 1時間前に来るよう言われた。 しかし当日 15時半に着くと、看護婦が駆け寄ってきて、前の患者の手術が早く終わったので今からすぐ手術にかかります、と言う。
「あの~、目の消毒とか麻酔とかは・・・」と言おうとすると、「大丈夫ですよ~っ」と、いとも簡単にあしらわれてしまった。 ホンマかいな。。。

わけもわからぬままバタバタと手術室に入ると、「天野さ~ん、F です。 こんにちは~っ」と、手術着を着てマスクをした F 院長が陽気に声を掛けてきた。 ひとから声を掛けられるとなんとなく安心するし、名前を呼んでもらえるのは、自分が認知されているようで嬉しくもある。 陽気な彼女の人柄もあるのだろうけれど。。。

そして手術が始まった。 説明会で見たビデオどおりにことは進んでいるのだろう。 本人はよくわからない。 F 院長はさすがに手馴れたもので、すこぶる手際がよい。 15分ほどで手術は終わった。 痛くもかゆくもない。 ただ手術中顔の上にあるライト(照明)を見るように指示されるので、それがやたら眩しかった。 ぼくはベッドで少し休み、帰途についた。

今、ぼくの左目には焦点の定まった人工レンズが入っているので遠近の調節が利かない。 手術前にレンズの焦点を近くにするか遠くにするかを決めるのだけれど、ぼくは先生の意見に従い年齢を考慮して焦点を遠くにした。 だから遠くを見るときは裸眼でよく見えるのだけれど、近くの手元などを見るには眼鏡が必要になる。 U 医師は40代のぼくに気を使って「手元鏡」と言うが、早い話「老眼鏡」が必要になったわけだ。

そこでぼくは、かねてから思い描いていたことを実行に移すことにした。
ぼくにとってメガネといえば、John Lennon の丸眼鏡と Bob Dylan のサングラス。 他のメガネは単なるレンズを保持する枠以外の何ものでもないのだ。 いそいそと近くの眼鏡屋に行き、店内を見渡してから開口一番、店主に言ってやった。

John Lennnon みたいな丸いやつはないのでしょうか?

「今はこういうのが流行りでして。。。丸眼鏡は。。。」と、横に長い楕円形の眼鏡を手にしながら店主は戸惑った。 「お取り寄せも出来ますが、お客さんは眉毛がこのような形ですので、丸よりも四角の方がお似合いだと思うのですが。。。」

ぼくは顔にあった眼鏡を探しているのではない。
眼鏡に顔をあわせるんだ。

なんて訳のわからないことを心の中でつぶやきながら、丸眼鏡を取り寄せてもらうことにした。 数日後その店に行って、取り寄せてもらった丸眼鏡を掛けて鏡で見ると、どうもおかしい。似合っていないのだ。 眼鏡が悪いに違いないと思い、正円でないとか、枠が光りすぎているとか、丸が小さいとか、いろいろ難癖をつけた上、自分でインターネットで探してみるといって店を出てきた。 蹴飛ばされても文句は言えない最悪の客だ。(ごめんね)

さて、インターネットで探すと、あったあった。
「ジョンの愛した丸メガネ! 手作り逸品」
これやこれや、と早速注文。 その Site は John Lennon のサインまで載せているが、許可を得ているのだろうか。。。 でも、そんなことはぼくには関係ない。 丸い眼鏡さえ手に入ればそれでよいのだ。 ホンマかいな。。。


というわけで、
近くのものを見るときは、丸眼鏡を掛けて John Lennon
陽光まぶしい炎天下では、目を保護するサングラスを掛けて Bob Dylan
という、ぼくにとって夢のような、この上もない幸せな日がまもなくやって来るのである。



乞うご期待 (笑)
2005年8月11日



− * − * − * −




私の 30メートルほど先を、息子が足早に歩いていく。 その前から、お母さんらしき、若い女性 3人が歩いてきた。 通りすがり、思わず私は日傘を傾けていた。 「チャックが半開きになっていること自体、おかしいでしょ」という声が聞えた。 ギクッとした。もしや、息子のことでは?
私は小走りになって、息子の後を追った。彼はスーパーの前で私を待っていた。 ズボンのチャックを見ると、半開きだった。太っているせいもあって、締めたはずのチャックが開くこともあるようだ。 「チャック開いてるよ」 指さすと、彼は慌ててチャックを上げた。 若いお母さんたちには、身長 180センチの私の息子が、要注意人物に映ったのかもしれない。
私もかつて、彼女たちと同じように子育てをし、子どもの将来を夢見ていた。 それなのに何がどうしたのか、息子は思春期に入る年代に精神を病み、私たちの暮らしは一変した。 その悲しみは多分、一生続くだろう。
長い間のひきこもりからようやく抜け出し、2年ほど前から外出ができるようになった。 時には一緒にスーパーへ買い物に行き、重い荷物を持ってくれる。 世間の偏見に負けぬ強さを、私が持てるまでに随分と年月を必要としてしまった。 この夏、彼は 32歳。私たち家族に支えられ、辛うじて人間として生きている。

(奈良県 / 主婦 58歳)

朝日新聞・朝刊の女性読者投稿欄「ひととき」に今年の 5月 29日に掲載された文章である。

事務所にある鉢植えのシクラメンが咲いた。
この冬咲いていたときよりもたいそう小ぶりだけれど、2輪咲き、あと 1輪はつぼみである。 この時期に咲くのかな?と思い、インターネットで調べたけれど、シクラメンの開花時期は晩秋から春にかけて、とある。



しかし、ぼくの目の前にあるシクラメンはいま咲いている。

漠然とではあるけれど一般的に、花に咲く時期があるように、人間にも咲く時期がある、と考えられている。 適齢期とでもいうのだろうか。
たとえば、入学。 小学校なら 6才で、中・高・大は12才、15才、18才、という具合。 青春時代は 20才前後で、その後会社に勤めて社会人となる。 結婚は最近晩婚傾向だけれど、22才から 27才か。
これらの時期を何らかの事情で逸したとき、ひとは世間から見放され、冷たい目で「異端」として扱われてしまう。 それも大っぴらではなく、陰でコソコソ陰湿に。特に、日本ではこの傾向が顕著であるように思う。

そう考えれば、いま咲いているぼくのシクラメンは「異端」ということになり、一般とは違う道を歩んでいるわけだ。 「狂い咲き」という言葉があるように、咲く時期が「狂った」と見る向きもあろうが、ぼくはそう思わないし、思いたくない。 「狂って」咲いたとは人間(世間)が勝手に思っているだけだ。 咲きたいときに咲けばよい。
この世で咲きたかったけれど、結果として咲けなかったシクラメンもあるだろう。 それもまた良い。 咲けなかったことは価値のないことではなく、咲けなかったことにそのシクラメンの意味を見出せばよい。

「ひととき」に投稿した主婦の「悲しみ」を、なんの苦労もせずこれまで生きてきたぼくが理解するには、あまりにも境遇が違いすぎる。 しかし、「思わず私は日傘を傾けていた」というちょっとした仕草に、彼女の世間に対する引け目を感じ、いたたまれない気にもなる。
ぼくは、あえて彼女に問いたい。
「その悲しみは多分、一生続くだろう」という「その悲しみ」とはなにか?
世間並みでないことの「悲しみ」か?
世間並みでないのは誰だ?
精神を病んだ息子か、あるいはそのような息子をもった自分か?
32才の息子が「私たち家族に支えられ」という現実だけれど、実はあなたもその息子に「支えられ」ていることはないのか?
またその息子が「辛うじて人間として生きている」というが、はたして息子自身は「辛うじて生きている」のか?

ひとはこの世に生まれ、みな死んでいくのであるが、生きているこの世は各人の舞台でもある。 舞台であるからには、主役である自分が、そこに自分の花を咲かせたいと思うのも自然なことだろう。 しかし、自分の花を咲かせるのに、なにも周りの期待に答える必要はないし、まして咲く時期の遅れなど焦る必要もない。

花は、咲きたいときに咲けばよいし、
たとえ咲けなくとも、それはそれでよい。

と、ぼくは思うのだ。

* * *

Bob Dylan の自伝が日本語訳で発売されました。 3巻まで出る予定です。
興味のある方、如何?


* * *
amazon が 10年目を迎えるということで記念行事をするのですが、そのひとつとして Bob Dylan と Norah Jones のコンサートをインターネットでライブ中継(無料)するみたいです。 現地時間の 7月 16日の 17時(Pacific Time の Summer Time なので日本時間だと 7月 17日 9時)からです。
残念ながらぼくは町のお祭りで見ることはできませんが。。。
2005年7月11日



− * − * − * −




親切な手紙と同封の50フラン札をありがとう。
いろいろたくさんのことを書きたいと思うが、書いてもつまらない感じがする。 きみはきみに好意を持っているあの人たちに会ったろうと思う。 きみはきみの家庭の平和な状態について、ぼくを安心させようとしているが、何もわざわざそんな必要はなかった。
(中略)
ところで実際、ぼくらはぼくらの絵に語らせる以外には何もできない。 しかしそれでも弟よ、これは今までにも終始きみに言ってきたことだが、もう一度言っておく。 出来るかぎりいい絵を描こうと思って心を引きしめ、倦(あぐ)まずたゆまず努力してきたあげくの果ての、全生涯の重みをかけて・・・ ぼくはもう一度言っておくが、きみは単なるコローの画商以外の何ものかだ。 きみはぼくを仲介として、どんな暴落にあってもびくともしない或る絵の制作自体に自らが加わったのだ。
(中略)
とまれぼくの絵に対してぼくは命をかけ、ぼくの理性はそのために半ば壊れてしまった・・・ それでもよい・・・ しかしきみはぼくが知るかぎりそこいらの画商ではない。 きみは現実に人間に対する愛をもって行動し、方針を決めうるとぼくは思うが、しかしきみはどうしようというのか?
(「ファン・ゴッホ書簡全集」 二見史郎・宇佐美英治・島本融・粟津則雄/訳、みすず書房 より)


これは画家 フィンセント・ファン・ゴッホ (Vincent van Gogh 1,953~1,990 オランダ)が、かれの弟テオ(1,957~1,991)宛てに書かれた最後の手紙であり、自殺を試みたゴッホのズボンのポケットから、ところどころに血がついた状態で見つかったものである。

先日、ぼくはゴッホ展をみた。


大阪・中ノ島に新しくできた国立国際美術館で、先月末から「孤高の画家の原風景/ゴッホ展」が催されている。 ゴッホは世界中で愛され続けてきた類(たぐい)まれな画家だ。
美術に関心のないひとも含め、老若男女を問わずかれの人気や知名度は群を抜いている。 生前絵が売れず極貧であったことや、ゴーギャンにまつわる耳切り事件、精神を病んだこと等、直接絵画とは関係のないこれらの話題も知名度に大きく関わっているのだろう。
多彩な才能をもち要領よく生きるひとを、やっかみもあってかあまり評価しないぼくたち日本人は、「頑固一徹」あるいは「この道一筋」という生き方や職業観を好む傾向がある。 だからゴッホに対し、「極端」「過剰」「気狂い」とか言いながらも、その愚直な生き方に自らを重ね、ひそかに共感するひとも多いのではないだろうか。 かく言うぼくも、そのひとりなのではあるが。。。


糸杉と星の見える道


自分の事務所を持つようになったころ、バブル経済で周囲はみな忙しそうにしていたけれど、ぼくは暇だった。 製図台の前に座っていてもすることがなく、一日中音楽を聴いたり本を読んだりして時間を消費していた。
全 6巻、2段組みで細かい文字がびっしり詰まった「ファン・ゴッホ書簡全集」(みすず書房)を読んだのもそのころである。 また、そのような境遇でしか ”こんな本” は読めたものではないだろう。 その本にはゴッホが弟テオに宛てた何百(いや、何千だったかもしれない)手紙がおさめられているのだけれど、読んでいると、まるでゴッホが自分に語りかけてくるような不思議な感覚に襲われる。
文章はいたって強引であり、真摯だけれど重くて暗い内容のものが多い。 よくある作家たちの、後年公開されるのを意識した手紙や日記の気取った文章とは本質的に違う。 読み辛いし、読むのも辛い。
しかし、最後まで読ませてしまう「力」を秘めているのも事実だ。 その「力」とは、表現力といった技巧的なものではなく、「真実」であることの「力」であるような気がする。 かれの絵にも同じことがいえるだろう。 この地球上で、他の生きものより多少頭脳が発達しているがゆえの人間としての「悲しみ」や「苦悩」、それがゴッホの絵や手紙から読み取れるのだ。


悲 し み

ゴッホの絵を、ただ単にキャンバスに描かれた作品として、その対象だけを無垢に見ることは難しい。 どうしても、その作品がかれの生きてきた人生を物語ってしまい、作品を鑑賞しているつもりが、いつの間にかゴッホというひとりの人物と対峙してしまうことになる。 ゴッホの「孤独」や「悲しみ」がその絵を介して押し寄せてくるのだ。
ゴッホを「孤高」とか「天才」あるいは「気狂い」だといって現代社会に生きるぼくたちと切り離してはいけない。 かれの絵を見たり手紙を読むと、誰しも自分の中にあるゴッホ的なるものに気づくはずだ。 ゴッホの悲しみは、人間誰もが感じる悲しみであり、ゴッホの悩みは、人間誰もが持つ悩みなのだ。 「真実」は時代や国が違っても普遍だ。 そういう意味で、ゴッホは永遠にひとの心の中で生き続けるような気がする。


夜のカフェテラス


自殺を図ったフィンセントのもとに駆けつけた弟テオが、かれの妻に送った手紙

かわいそうに彼は幸福の大切な部分をなくしてしまった。 彼にはもう希望すらも残っていない。 孤独がそれほどまでに彼には重く感じられるのだ・・・。 彼はぼくに、自分の生涯の悲しみは思いもよるまい、と言った。ああ、ぼくらが少しでも彼に勇気を与えてやることが出来たなら!

「ファン・ゴッホ書簡全集」より

2005年6月24日



− * − * − * −




非常事態だ。

これまでも度々あったけれど、今回はもうお手上げ寸前。 もちろん、こんなことになってしまったのは、ぼくに責任がある。 逃げるつもりはないが、この現状を直視すると、うんざりする。 ひとに助けを求めても、こればかりはどうしようもない。 自分で解決するしかないのだ。
何度も自分に言い聞かせ、それに立ち向おうとしたのだけれど、なかなか思うようにいかず、とうとう非常事態になってしまったのだ。 「不屈の精神」をもつ Woody Guthrie をこよなく愛するぼくとしては、彼を見習ってなんとかこの局面を乗り切らなければならない。
楽あれば苦あり、苦あれば楽あり。色即是空、、は関係ないか。。。

ぼくはテレビをほとんど見ない。 また音楽は好きだけれど、事務所に音のするものは一切ない。 当初ラジオがあったけれど、一日中、それも一生懸命 FM 放送を聴くはめになり、仕事をする「暇」がなくなってしまったのだ。 ラジオとの別れは本当につらかったが、慣れてしまえば静寂もまた良い。
話をもとに戻すが、結局ぼくはテレビも見ないし、ラジオも聴かない生活を長く続けている。 そうなると世情を知るには「新聞」という媒体が必要だ。
最近「新聞」を読まないひとが多いらしいが、読んでいるとなかなか面白い。 そういうぼくも、学生のころはテレビとスポーツ欄しか見なかった。 しかし、いまは文化欄を読むのが楽しくて仕方がない。 そう、ぼくは「新聞」大好き人間である。

それが、非常事態なのだ。

いま読んでいる「新聞」は、なんと 5月 9日付。 ひと月以上前の「新聞」を読んでいることになる。 「新聞」でなく、まさしく「旧聞」だ。
そんなもの捨ててしまえ、と思われるか知れないが、読まずに捨てた「新聞」に面白い記事が載っていたらどうしてくれますか?。。 いやいや、喧嘩を売るつもりはないのです。 好きな「新聞」のこととなるとついカッとしてしまう。 すみません。
もう、勝手にしろ!、ですって。。 ええ、勝手にしますとも。 ひと月以上前の「新聞」は読むな、という法律もありませんしね。
でもね、事務所にうず高く積まれたひと月分の「新聞」を毎日見ていると、うんざりするのです。 なんとかなりませんかね。。。

このような非常事態下において、月一回の「新聞」休刊日が来ると、なぜか嬉しい。 一日分助かる。 逆に土曜日の朝刊には 8ページからなる特集紙がふたつも付いており、恐怖だ。 面白いコラムや記事が多いときも、恐怖。 読むのに時間がかかって仕方ない。
朝日新聞では月曜日の朝刊に読者が投稿した俳句や短歌が掲載され、ぼくはこれが好きで毎週愛読しているが、他の日より読むのに時間がかかってしまうので、いまはこれも恐怖。
顰蹙(ひんしゅく)を買うけれど、社会的な大きな事件や出来事があるとその記事が大々的に取り上げられていつもの記事やコラムが休みになることもあるので、素直に嬉しい。 ちなみに、社会面はほとんど興味がなく、読まない。 見出しを見るぐらいだ。

さて、「新聞」は世界中で発行されているけれど、日本は特殊だといわれている。 発行紙数が少ない割に発行部数が極端に多いのだ。 日本では日刊紙が 105紙 7,000万部発行されているが、人口が日本の約 2.3倍の米国では 1,456紙 5,500万部、0.66倍のドイツで 372紙 2,250万部、0.46倍のイギリスで 107紙 1,860万部という具合だ。
要するに、日本では特定の「新聞」、いわゆる全国紙と呼ばれる「新聞」に読者が集中していることになる。 読売 1,000万部、朝日 800万部、毎日 400万部、日経 300万部、産経 200万部。驚異的な発行部数で影響力も絶大。
しかし、地方紙だけれど頑張っている「新聞」もある。 たとえば、名古屋を中心に 280万部を発行している中日新聞。
そういや名古屋に住みはじめたころ、全国紙など見向きもせずにひたすら中日新聞を読んでいる地元のひとを見て、不思議なところだと思ったものだ。 でも地方文化の継承と育成という面から考えれば、本来望ましいことでもある。 1,000万部や 800万部発行の全国紙にも良い面はあると思うが、ただ単に発行部数が多いから信頼できると考えるのも問題があるだろう。

とにかくぼくとしては、少しでも早く非常事態を解除すべく、暇さえあれば「新聞」を読み、「今日の新聞」を読むという当たり前の生活に戻さなければならないのだ。 ひと月分の「新聞」がうず高く積まれているのを日々見ていると、うんざりしますよ。 いや、ホンマ。

2005年6月14日



− * − * − * −




数字とは不思議なものだ

ぼくは子供のころから、奇数が好きだった。
2で割り切れるか否かで数字は偶数と奇数に分けられているけれど、ぼくはなんとなく偶数に地味で大人しい印象をもち、どうも好きになれない。 その点、奇数はとんがった感じがし、いたってスマートだ。3 や 5 や 7 という数字は見ているだけで気分がすこぶる良い。
なにかで数字を選ばなければならない時、ぼくは奇数を選んでいる。 ずっとそうしてきたので、ほとんど無意識だ。もし先着がいて奇数がすべて塞がっているときなどは、欝になる。
奇数と偶数、どっちが好き?、などという統計はないと思うし、誰もそんな(くだらない)ことにこだわっていないのかもしれない。 時々ひとにそのことを話したりするけれど、場が盛り上がったためしがない。 「奇数」に変なこだわりを持っているのはぼくだけなのかもしれない。

「キリ」のいい数字、というのがある。
たとえば 10 とか 100。 よく記念日で 50周年などと言ったりする。 その記念日は毎年来るので単なる年の積み重ねなんだけれど、「キリ」のいい数字のときはいつもより盛大に催したりするのが一般的だ。要するに、みんな「キリ」のいい数字が好きなんだ。
今年は第二次世界大戦が終わって60周年、日露戦争が終わって 100周年という。 また、阪神・淡路大震災から 10年目でもある。
「キリ」のいい数字をひとつの「節目」として、心新たにその出来事に思いを馳せる機会をつくる意味があるのだろう。

「キリ」のいい数字に苦しむこともある。
大リーグに移籍して 11年目の野茂英雄が苦しんでいる。 開幕前、あと 4勝すれば日米通算 200勝が達成されるということで、周囲の期待は大きかった。 オープン戦の調子は良くなかったけれど、監督の温情もあってか、なんとか 1軍入りを果たしていた。
しかし、好不調の波が例年より激しく、これまで 10試合に先発して 3勝 6敗、防御率 6.61という成績であり、ここ 2試合は連敗している。 防御率とは、9回(イニング)投げたと換算した失点(自責点)のことで、いまの野茂の成績では 1軍にいること自体おかしいくらいだ。 あと 1勝で 200勝ということで、野茂自身だけでなく、ファンをはじめ監督やチーム仲間にも、なんとか達成させてやりたい、という思いがあるのだろう。
「キリ」のいい数字へのこだわりが、みんなを苦しめているのだ。 しかしそれが達成された暁には、苦しんだ分だけ、いやそれ以上の喜びと感動があることを、みんなは知っている。

不遇な数字もある。
日本では 4 や 42 がそうだ。「死」を連想させるという理由だろうが、人間が勝手に思っているだけで、数字にはなんの罪もない。 日本でしか通用しないんだし、一笑に付せばよいとは思うものの、なんとなく気になるし嫌だ。
2 という数字も、二番煎じ、二の舞、二枚舌等、日本ではあまり良い意味で用いられないような気がする。

数字は単に数を表す文字ではあるけれど、そこにひとの「思い」や「イメージ」が入り込むと、なかなか一筋縄ではいかないものなんだ。

2005年6月7日



− * − * − * −




著作権

はたして伝統文化(folklore)にも著作権はあるのか。
朝日新聞( 5月18日付、朝刊)によると、ジュネーブにある世界知的所有権機関 WIPO で昨年第7回「知的財産と遺伝資源、伝統的知的及びフォークロアに関する政府間委員会」が開催され、伝統文化の著作権について開発途上国がその権利を主張し、かたや日本を含む先進国が反対して大きな論争になったという。

開発途上国側の主張はこうだ。
「伝統文化が不正に利用されている。 許可なく複製や翻案をさせないという権利を、その文化を生んだ地域や民族に与えるべきだ。」
一方、先進国側は
「伝統文化には「共有財産」といわれるものが少なくない。 著作権制度は新たな創作を促進するのが目的のひとつであり、伝統文化保護にこの制度はなじまない。」と反論している。

たとえばテレビ番組で、ミッキーマウスなどディズニーのキャラクターを無断で使用することはできない。 ミッキーマウスの「かぶりもの」をかぶって登場するだけでもクレームがつくだろう。 しかし伝統文化、たとえばフラダンスをタレントが面白おかしく真似た場合、それは「笑い」で済まされてしまい、むかしから大切に継承されてきた伝統文化が異国で侮辱されてもなすすべがなかったのである。

しかし、伝統文化に著作権を認めるには問題も多い。
伝統文化といっても「文化」は多様であり、まずその選別が難しいだろう。 また、あるひとつの文化のなかにも多くのバリエーションがあり、どこまで認めるのかが難しい。
伝統文化の「伝統」という言葉もあいまいだ。 100年程度の歴史でも伝統といえるのか、など歴史基準を明確にすることは難しいし、長く続いていればいいというものでもないだろう。

知的所有権は比較的新しい概念であるけれど、伝統文化がいまも継承されているという現実がある限り、それを過去にさかのぼらざるを得ない状況になり、どうしても先程述べた難しい問題が立ちはだかるのである。
また、他民族の伝統文化に敬意を払って尊重します、という「きれい事」で済ますことができないのは、放映権等で「お金」が絡むからだ。
今回の論争は、マイクロソフト等のコンピュータ関連をはじめ、著作権で莫大な利益を得、その恩恵をこうむっているのはいつも先進国、という開発途上国の反感が根にあるとも言われており、新しい南北問題なのである。

音楽の世界でも著作権がよく問題になる。
「盗作」もそのひとつだ。 ぼくはよく知らないのだけれど、日本の「オレンジレンジ」という人気バンドのヒット曲「ロコローション」が、40年 ほど前に Gerry Goffin と Carole King の名コンビがつくって世界的にヒットさせた「ロコモーション」と酷似しているという。 タイトルからみても明らかにパロディと思われるのだが、アルバムに記載された作者名が「オレンジレンジ」になっていたので問題になったのだ。彼らの曲には、他にも他人からの「盗用」 と思われるものがたくさんあるという。

「起源 origin」より「独自性 originality」を重んじるべきだ、と主張するひともいる。( 4月17日付、朝日・朝刊)
ロックやジャズの源流であるブルースを例に出し次のように主張している。
「その草創期の歌い手たちは、多くが名もなく金もなく世を去った。 かれらは口承で伝わった歌を、様々に変奏しながら酒場で歌った。 当時、「おれのメロディーをパクるな」といったいさかいは、おそらくなかっただろう。そんなことより、節まわしや泣きのギターの独自性こそ、目の前の聴衆相手に競ったはずだ。 (中略) 「作品」が「作者」に帰属しなければ落ちつかないという心性は近代以後であり、フランスの思想家フーコーはそれを「(文学上の)匿名性はわれわれには耐えられない」と書いた」

画家・ゴッホが敬愛するミレーの絵を何度も模写したことは有名だ。今では、ゴッホの「種をまくひと」の方がミレーのそれより高く取引され るかもしれない。ゴッホは「絵の勉強」のために模写したのであろうが、やはり売れれば喜んだであろうことは想像に難くない。 その場合、ゴッホの絵には独自性 originality があるので問題なし、と言えるだろうか。。。

建築の世界でも盗用(コピー)が氾濫している。
形状や仕上げ、ディテール(細部の納め方)、見せ方といった視覚的なものだけでなく、考え方やアプローチの仕方などコピーの対象は色々だ。

盗用といえば数年前、Bob Dylan に疑惑が持ち上がった。 2,001年に発売されたアルバム "Love And Theft" (愛と窃盗)で、その中の歌詞がある小説からの盗用だというのである。
ある小説とは、日本人・佐賀純一さんの「浅草博徒一代」の英訳本 Confessions Of A Yakuza であり、長文も含め多くの盗用ヶ所がある。 アルバムタイトルからしていわくありげだが、Dylan は一切ノーコメント。 ノーベル文学賞にここ 5~6年ノミネートされており、騒ぎを大きくしたくはなかったのだろう。 感心したのはそのことを知らされた佐賀さんのコメントで、多くの外国人記者を前に、
「悪い気はしません。 非常に有名な歌手に私の書いたものでインスピレーションを感じてもらえて、むしろ光栄なくらい。」と言い、
CDショップで Dylan のアルバムを数枚買って、
「ボブ・ディランさんのファンになりましたよ」なんて笑っている。

著作権も origin の作者がそれを主張しなければ、絵にかいた餅である。

2005年5月31日



− * − * − * −




「大唐王朝・女性の美」

大阪市立美術館で「大唐王朝・女性の美」展が催されていたので見に行った。 事務所から歩いて 5分程度のこの美術館はぼくのお気に入りだ。 しかし、今回の展覧会は思ったより地味だった。(笑)
唐は約 300年間(618年~907年)続いた大帝国であり、日本では遣唐使などでもよく知られている。 時代でいえば飛鳥時代から平安時代にあたる。 この唐の時代には、中国の歴史上唯一の女性皇帝である武則天がいた、らしい。 また李白の詩で有名な絶世の美女・楊貴妃がいた時代でもある、らしい。 (らしい、らしいって、すみません、歴史が苦手でした/笑)
そういや、「傾城の美女」なんて習いました!


展示は傭(よう)と壁画が中心だ。 傭というのは陶器製の人形(動物もある)で、死者があの世でも生前と同じ生活ができることを願って埋葬されたものらしい。 秦の始皇帝の墓にある兵馬俑は有名だ。
その庸や壁画から、当時のファッションや美人を検証しようという面白い試みではるが、ぼくにはどれもこれも同じようで、正直よくわからなかった。 あの当時の美人は、日本でも「天平美人」といわれる「しもぶくれ」のふくよかな顔立ちである。 今のぼくたちが見て、たとえ好みの違いはあったとしても、美人であることは確かだ。 要するに、「美」は普遍的で絶対的であるのかもしれない。
さて、美人顔の要素とは一体なんだろうか。
(1) 顔の形状やサイズ、それに色
(2) 目・眉・鼻・口・耳のサイズとその配置、それに色
(3) 髪の形状や色
というのが基本的要素であろうか。 当然各々相互のバランスも大切だ。
しかし、これらの要素のほとんどは遺伝として持って生まれたものであり、本人にはいかんともし難い。 だから「ひと」として生まれるならば、やはり美人と して生まれたい、というのが本音であろう。

美人とは別に、「かわいい」とか「かっこいい」いう基準もある。
美人顔の要素が完璧に揃ってはいないけれど、表情やちょっとした仕草が「かわいい」かったり、「かっこいい」ひとはたくさんいる。 絶対的な美人と違い、こちらは「相対的」かつ「主観的」であることが多い。
オレの彼女、かわいいよ~、と写真を見せられ、答えに窮した経験が何度かある。 アイツにとって「かわい」ければ、それでいいのだ。 自身を美人でないと自覚しているひとは、「かわいさ」や「かっこよさ」にかければよい。(それしか、ない)

そのむかし、美人ではないけれど「アップに耐える顔」だと言って、歌手の研ナオコなどがテレビ画面いっぱいに大映しにされたりした。 当時ぼくはそれがよくわからず、アップに耐える、とはなんだろうと考えた。 テレビは執拗に彼女の顔のアップを映すのだけれど、耐えているのは実はテレビを見ている視聴者じゃないか、とぼくは結論を下した。

男の顔はどうだろうか。
一時ブームになった韓国の俳優、通称ヨン様(通称しか知りません/笑)は確かに美男だ。 しかし男の場合、特に上の世代ほど、「男は顔じゃない」という価値観が頑なに幅を利かせている。 そういう男の世界ではかえって美男は肩身が狭い。 美男子=軟弱、というあらぬレッテルを貼られたりするからだ。 とは言っても男だって、不細工なのより美しいほうがいいに決まっている。

「男の顔は履歴書である」とかつて大宅壮一は言ったけれど、本来は男も女もなく、「人間の顔は履歴書」と言い替えなければならないだろう。
確かに幼い頃、あるいは学生時代、美男・美女とはとても言えなかったひとでも、大人になるにしたがって風格ができ、魅力的になるひとがいる。 ある意味、理想的な年のとり方をしているのだろう。 逆の場合もある。 学生時代にはモテモテの美男・美女だったのに、大人になって、なんか変になっちゃった、というひとだ。 人生はこのようにうまくバランスがとれているのかもしれない。(捨てたものではないぞ!)

思ったより地味だった展覧会を見て、顔について色々と考えてみたのだ。



今日 5月 24日は、ぼくの大好きな Bob Dylan の 64回目の誕生日だ。 かれはいまだに、世界中をまわって 1年間に100回くらいコンサートをこなしている。 ぼくがかれこれ 30年以上も憧れ続けているひとなんだ。
誕生日、おめでとう!
2005年5月24日



− * − * − * −




なんば・高島屋で「三岸節子」展をみた

三岸節子は 1,905 年(明治 38年)いまの愛知県一宮市に生れた。 画家をこころざして 16歳で上京。 19歳(大正 13年)のとき画家の三岸好太郎と結婚。(好太郎は 10年後病死)   以後、日本の女流画家の草分けとして活躍する。 すでに名声を得ていたが、新たな挑戦として 63歳で渡仏。 約 20年間フランスで画業に励むが、体調を崩し 84歳になって日本に帰国。 1,999年(平成11年) 94才で亡くなるまで、神奈川県大磯のアトリエで絵筆を握り続けた。

十九歳の自画像


絵を描くことは、長く、遠く、果てしない孤独との闘いである。
あるときは良しとし、あるときは絶望に陥る。 一喜一憂。 (三岸節子)

略歴を辿ると、いかにもなるべくして画家になり、そしてそれをまっとうした幸せな人生のように思える。 しかし彼女の随想日記からは、悶々と苦悩し、逃げずに受けとめ、なんとか折り合いをつけて制作に向かう彼女の健気な姿が浮かんでくる。 気丈に振舞うひとではあるけれど、なかなか芸術家の苦悩はそう簡単には晴れてくれないのである。
しかし年齢的なこともあるけれど、天性なのかこのひとの「あっけらかん」とした、ある意味「達観した」結論を導き出す力は、なかなか魅力的で、ぼくは好きだ。



オカラを煮て、ハンペンを煮て、先日買ってきた豆らしきもの、昆布など、煮物ばかりする。 よく食べ、よく眠る。3時に絵をなんとか描かねばなるまい。 朝起きて散歩。お茶を飲み、梅干を食べ、クルミを5個。朝食。絵を描く。 何等の感動もなく静かに日は過ぎてゆく。死を恐れるわけではない。 むしろ死を永遠の安息と待ちわびる心地さえするが、まだ生きて、生きなければならないのだろう。 或る日突然、生の終わり死がやってくる。 それでよい。 みずから命をたつ勇気もないが、その必要もない。 恥多き生涯。ひと思いに消えてなくなればよいと思うが、まだ生きていかなくてはならないのだろう。 その時がくるまでは・・・・
よく食べ、よく眠り、よく描く。それでよい。 (三岸節子)

何のために自分は絵を描くのか、という哲学的な「問いかけ」がいつも彼女を悩ませる。 何のために生きるのか、と同じことで、そんなことは誰だって答えることはできない。

ミュージカル「ウエスト・サイド物語」の音楽を担当したことでも有名な、ニューヨーク・フィルの指揮者 レナード・バースタイン(Leonard Bernstein 1,918~1,990 米)は、obsession(とりつかれること)という言葉でそれを説明している。

自分は音楽家になるべきか、とあなたが質問するなら、答えはノーだ。
尋ねるならノー。
理由は、尋ねたから。
禅問答みたいだろ。
もしあなたが本当に望む(obsession)なら、あなたは音楽家だ。
誰も止めることはできない。

(Leonard Bernstein)

ミモザ咲く山


obsession ですべてを片付けてしまえば思考放棄と同じだけれど、後からいくら考えても説明のつけようがない衝動も確かにある。 理性に則った計画や判断ではなく、抑えがたい衝動に駆られて踏み出し、訳も分からず突き進んでしまう情熱に可能性が宿るとバースタインは言いたいのであろうが、まさに三岸節子は obsession で絵を描き続けたのである。

よく食べ、よく眠り、よく描く。それでよい。(三岸節子)
2005年5月16日



− * − * − * −




奈良国立博物館で「曙光(しょこう)の時代」展をみた

日本文化のはじまりをヨーロッパに紹介しようと、文化庁主導で昨年 7月から今年 1月までドイツの 2都市で展覧会が開催され、それが好評だったことを受けて日本で帰国展として催したのが今回の展覧会である。


現在の日本列島がアジア大陸と陸橋で結ばれていたのは今から約 63万年前と約 43万年前の二回あったとされ、ナウマンゾウが大陸から渡ってきたのは二回目の時だという。 人類はそれを追って日本列島にやってきたと考えられるが、明確な証拠はないらしい。 誰もが認める日本列島最初の人類の痕跡はおよそ 4万年前であり、旧石器時代の中期から後期にかけてのこととされている。(展覧会の解説文より)

会場に入り、先ずこの解説文が入場者を古代日本に誘(いざな)ってくれる。
ぼくはこの文を読みながら、いくつかのことに興味を抱いた。


日本列島が昔アジア大陸とつながっていたことは知っていたが、一度離れてまたくっついたということは知らなかった。 地殻変動だから、ありえない事ではないだろう。 そのような物理的な運動を、たとえば「日本とアジアの関係」に置き換えると、非常に示唆に富んだ現象であると思う。
一度くっついたら二度と離れられないというのは、やはり窮屈だ。 かといって、何のふれあいもない孤立では寂しすぎる。 くっついたり離れたりというのが、本来絶妙な関係と言えるのかもしれない。

ナウマンゾウを追って人類が日本列島に渡ってきた、というのも面白い。 貫頭衣や袈裟衣を身にまとった原始人たちが、歩いて日本列島に渡ってきたのである。 いや、はるばる渡ってきてくれたのだ。 国籍なんかないので「人類」でよい。 渡来の目的は、獲物の確保といったところか。 かれら渡来人はぼくたち日本人の祖先である。

渡来といえば、もっと後になってから日本列島に渡来したひともいる。
たとえば、自分自身が大陸や半島から渡ってきたひともいるだろうし、親や祖父母がそうだというひともいる。 時代により渡来の目的や国籍が違う。 自分の意思に反して来た(連れてこられた)ひとも多くいる。 いろいろだ。

大昔に日本列島に渡来した祖先をもつひとが、比較的新しく渡来した祖先をもつひとを差別するのはやめたほうがいい。 人類の歴史から見れば、ほとんど差はないのだから。


歴史に親しむことは大切だ。
細かい年表や重要な人物・出来事を無理やり暗記して覚えることが歴史に親しむことではないはずだ。 地球のことや国のこと、そして人類のことを起源から今に至るまで壮大なストーリーとして思いを馳せることが出来ればよいのではないだろうか。 民族や宗教の違いで殺し合いをしたり、肌の色や出自でひとを差別したりしている現代のぼくたちの社会ではあるけれど、大昔、たとえば 10万年前の人類に照らしてそれらのことを考えたりすると、どうでもいいようなチマチマしたことのように思えるのだ。

* * *

この展覧会を見るために久しぶりに大好きな奈良に行った。 J R で行ったのだけれど、奈良駅前の再開発を見て暗い気分になった。 黒川紀章の墓石のようなマンションとアルド・ロッシ Aldo Rossi による薄っぺらい仕上げのホテルには以前から幻滅していたが、今回新たに収益マンションがどんと真ん中に建っていたのには、あ然とした。 そのすぐ後ろにある磯崎新のなら 100年会館は、壁にほとんど開口部がなく周囲を拒絶するかのような外観だけれど、案外先見の明があったんだと認めざるを得ない状況なのだ。
世界中のひとが憧れる、まほろばの奈良ですぞ
2005年5月9日



− * − * − * −




初めまして、メールしました。★かずみ☆だよ(*^ー゜)/
突然のメールでびっくりさせちゃってごめんなさい。
出会い系初心者なんですけど友達に教えてもらいながら
なんとか書き込みしてみました。ご近所っていうくらいだから
近いんですよね?
もしよかったらメール交換とかできたらいいなぁと思って
時間経ってるからもう相手いますか?
22歳独身・カレシ無し・小柄な私ですが(>_<)
お返事ちょっぴり期待してます。

今パソコン勉強中なので付き合ってもらえると嬉しいです。
本当は携帯のほうが楽なんですけどね。

* *
ある日、こんなメールが来たので律義に返事を書いてみた

* *
いや~っ、ホント、「びっくりしたなぁ~、も~」ですよ
★かずみ☆ちゃん(*^ー゜)
エッ、「びっくりしたなぁ~、も~」って、知らない?
漫才の「てんぷくトリオ」で・す・よっ
解散してずいぶんなるけどぉ、覚えといてネ ♪

>出会い系初心者
み~んな初めは初心者でしょっ
そのうち・な・れ・ま・す・よっ{キ・ッ・ト}
「出会い系」って、ナンカ、E 感じ~っ

>ご近所っていうくらいだから近いんですよネ?
おもしろすぎ~っ!、★かずみ☆ちゃん(*^ー゜)
いくらなんでも、遠かったら近所とは言わないでしょっ
目と鼻の先ですよ、★かずみ☆ちゃん(*^ー゜)

>もしよかったらメール交換とかできたらいいなぁと思って
いいに決まってるじゃぁ、あ~りませんか!
エッ、また知らないの?
吉本のチャーリー浜じゃぁ、あ~りませんか!
★かずみ☆ちゃん(*^ー゜)、知らなすぎ~っ
メール交換とか、ぼく。。。OKですぅ

>時間経ってるからもう相手いますか?
いるわけないでしょ、わかってる・く・せ・に ♪

>22歳
エッ、エ~ッ、年下~っ?
ヤだなぁ~、出会い系には「年上」って言ってたのに~っ

>小柄な私
なにぃ~っ、エッ、エ~ッ
ぼく、じつは、小柄のひと苦手なんですけど。。。

>お返事ちょっぴり期待してます
なに言ってんですか、ヤですよっ!
ぜ~んぜん期待・ハ・ズ・レ (*^ー゜)

>今パソコン勉強中なので付き合ってもらえると嬉しいです
パソコン教室じゃありませんよっ、★かずみ☆ちゃん(*^ー゜)
おかしいなぁ~、出会い系、でしょ。これ?

>本当は携帯のほうが楽なんですけどね
それが。。。ダメなんですぅ、★かずみ☆ちゃん(*^ー゜)
ぼくの携帯、メール機能なし、っていうかぁ、ダメなんだよね~ダ

* * *

という具合に、俗に「迷惑メール」と呼ばれるものであっても、このように「仮想返事」を書いたりすることで、結構遊ぶことができる。 そう、「迷惑メール」が「お楽しみメール」に早変りするのだ。
しかし問題は、一体誰がこんな「アホ」なことをして暇をつぶすのか、という、ただ一点に尽きるのではないだろうか。(笑)
これを見て引いてしまった施主さん、いるかなぁ。。。

2005年5月2日



− * − * − * −




「ビッグイシュー」の発売は毎月 1日と 15日だ

そんなこと言われなくても「わかってるわい」と思ってるのに、つい買い忘れていた。 「ビッグイシュー」とは、ホームレスのひとが路上で売る世界的な雑誌である。
朝いつものように、JR天王寺駅から公園に向かって、アベ地下(アベノ地下センター)におりる階段を左に見ながら雑踏にまぎれて歩いていると、不意に視線を感じた。 視線とは不思議なもので、先方の目からなにも放たれていないのにこちらはビンビン感じてしまう。 たしか前の日も同じ視線を感じたが、無視して通り過ぎた。 今回は思い切ってその視線の方に目をやると、ひとの良さそうな、というか気の弱そうなおじさんがこちらを見て、目が合うとうつむいた。

あじゃ~、忘れてた。。。悪いことしてしまった

ぼくはおじさんの前に行き、財布から 200円を取り出し「ビッグイシュー」を買った。

「いつも有難うございます」

「いえいえ」

なにが「いえいえ」だ。。。
おじさん以上に気の弱いぼくは、なにも言えないでその場を去った。

「ビッグイシュー」の今回の特集は「捨てよ、天職幻想」
いま社会問題化している、フリーターやニート(NEET = Not in Employment, Education or Training 職業にも学業にも職業訓練にも就いてない、就こうとしないひと)に関する記事である。 売れっ子精神科医の香山リカもコメントを寄せており、興味深く読んだ。内容をかいつまんで言えば、

「天職」なんていくら探しても見つからないよ。
何でもいいから一度やってみて、それが自分にあっていれば「適職」なんだ。 やりたい仕事と違っても、やっていれば面白いこともあるんだよ。

ということだろうか。
厚生労働省によるとフリーターは 200万人、ニートは 50万人をはるかに超えているという。 みんなではないにしろ、彼ら・彼女らは「自分のやりたい仕事がわからない」と悩んでいるのであろうか。 もしそうだとすれば、あまりにもかわいそう過ぎる。

「おまえは好きなことしてメシが食えて、楽しそうで幸せやなぁ~」

これまで何度言われたことか。
「メシが食えている」か否かは別として、「楽しくて幸せ」なのは事実だ。 しかし、建築家がぼくの「天職」や「適職」だとは思っていない。 自分より実力のあるひとは世の中にあまたおり、彼らを見ているととてもこの仕事がぼくの「天職」などとは思えないのだ。 このような空間を創りたい、と思って設計しても、なかなか思うようにできない。 すべては自分の責任。落ち込んで、今度こそはと思って次にかけるが、また落ち込む。 この繰り返しで今までなんとかやってきた。

偉くもなく、立派でもなく、格好良くもない

ひと月以上前になるが、友達の A が電話してきた。
かれは去年の秋、上司と喧嘩して会社を辞めており、1月末までハローワークの紹介でパソコンを習い、それから求職活動をしていた。 同僚もみなその上司を嫌っていたのだけれど、かれだけが矢面に立ち、辞めざるをえなくなったようだ。
ぼくはそんなかれが好きだし、誇りに思っている。 子供が大好きなのに、子供ができてしばらくすると離婚してしまった。 今は身体が不自由な認知症ぎみの年老いた母親とふたり暮しである。

「就職決まった」
彼はいつも言葉が少ない。
「おお、よかったな」
「ああ、ほっとした」

たったそれだけのやり取りである。
母親の面倒を見なければならないので残業ができず、パートで働くそうだ。
彼はそうすることを当たり前のように受け入れている。 自分を犠牲にしているなどとは考えていない。 まして愚痴など聞いたことがない。 自分ひとりだから、給料も 10万円あればいい、という。
ほっとしたか。。。
なによりだ。それで充分だ、他になにがいるというのか。

先日近くに住む友達の B に偶然会った。
彼は兄弟 3人で親の会社をついでいる。 社員も 7~8人いただろうか。

「おう、元気にしてる?」
どうも彼の様子がへんだ。
「実は、仕事が少なくなって、去年暮れに社員のひとみんな辞めてもらって、会社の土地も売ってしもた。 これからどうするかまだ決めてないけど、子供が学校の先生になりたい言うて私立の学校に通ってるし、ガードマンかなにか探そうかと思てるねん。」

返す言葉がなかった。

昨日、学生時代の友人 C から転勤を知らせるハガキがきた。
転勤する前に会って食事をしたから、驚くこともない。 大企業で出世しているかれは、転勤ばかりだ。奥さんの実家の近くに家を建て、奥さんと子供はそこに住む。 ゆっくり落ち着きたいが、なかなかそうはさせてもらえない。

「いい加減、疲れた」

と彼は言う。 会社の都合でかれこれ 25年、それも大切な人生の青年期と壮年期、あちこち回され、こき使われている。 ハガキには通り一遍の印刷された文章と、その余白に彼の下手くそな字で「ありがとう」と書かれていた。

会社のことを「法人」とはよく言ったものだ。
こいつは人間以上にわがままで、たちが悪い。 人をクビにしてでも自分は生き残ろうとする「ひとでなし」。 一体全体「法人」とはなに様なんだ。 こんなやつに人間が振り回されていては本末転倒じゃないか。

フリーターやニートのみなさん、「天職」ですか?

自分の誕生日を忘れても、ビッグイシューの発売日を忘れてはいけない。 死ぬまで買い続けてやる。 1日 30冊売れても、おじさんのもとには 30×(200円-90円)=3,300円。毎日働いて、ひと月 10万円也。 それにしても、1日 30冊も売れるのかなぁ。。。

2005年4月26日



− * − * − * −




中国の反日デモ

先週末、上海で数万人規模の反日デモがあった。
日本総領事館や日本料理店などの日系店舗に石やレンガ、ペットボトルが投げつけられ、また日本車が横転させられたり、日本語の看板が壊されるという破壊行為もあり、邦人数名が負傷した。 上海には日系企業が約 4,500社進出しており、在留邦人は約 34,000人いる。
先々週の週末は北京にある日本大使館前でデモがあった。 ひとつ鎮圧しても、すぐ他の地域に飛び火してなかなか治まりそうにない。 これで 3週連続の反日デモである。

中国政府も難しい立場だ。
強引に鎮圧すれば日本に対して弱腰だと国民から非難され、デモの矛先は政府に向くだろう。 もしそうなれば、どうしても避けたいであろう 16年前の天安門事件の再来という事態になりかねない。 かといってデモを放置していると、治安の悪い国だと国際的な評価を落としてしまう。 3年後、北京でオリンピックを開催しようというのだから、なおさらである。

反日スローガンを唱え、破壊行為を繰り返す中国の若者たちを見るのは、日本人としていい気がしない。 ガラスが割られ、外壁をペンキで汚された日本総領事館や、メチャクチャに壊された日本料理店、それに日本の国旗に×印をつけて燃やしている映像を見ていると、普段「愛国心」など意識していないぼくですら、なんだか腹が立つ。 ならば仕返しを、とまでは思わないが、このような中国にあまりいい印象が持てないのも事実である。

中国では「愛国無罪」という言葉があるそうだ。
「愛国心」からの言動は何であれ無罪放免、ということらしい。 多民族・多言語国家という側面もあるため、人心をまとめるために「愛国心」を国づくりの礎(いしずえ)に位置づけているのであろう。
しかし、国民に真の「愛国」をのぞむなら、「憂国」の自由も認めなければならないはずだ。 愛があるからこそ憂うのであり、それはごく自然なひとの心のあり様だ。 「憂国」の言動を規制することで形だけの「愛国」がはびこることになりはしないだろうか。
「反日教育」は、日本という敵をつくることによって国民の意識を「憂国」に向かわせない意味もあるのだろうが、自国の悪いところは口を封じ、他国の悪口を国民に言わせるようなやり方は如何なものかと思う。
さて、中国では 5月 4日は 1,919年に起きた反日愛国運動(五四運動)の記念日、いわゆる「抗日記念日」である。 中国政府は数日前から、国民に冷静な行動をとるよう呼びかけている。

2005年4月21日



− * − * − * −




一昨日、大阪は春の陽気で桜が満開になった

どちらかというと、ぼくは桜より梅のほうが好きだ。 それも、所狭しと植えられた梅林より、どこかの家の前栽(せんざい)に咲く 2~3本の紅白を、通りがかりに見るのが好きだ。
むかしから梅が好きだったわけではないのだけれど、いつごろからだろうか、多分、それまで地味だと思っていた日本画に惹かれるようになったのと同じ頃じゃないかと思う。 音楽はいまだに洋楽が好きで、演歌はどうも好きになれないのだけれど。。。
そういえば小学生の頃、先生が、春と秋のどちらが好きですか、とみんなに尋ねたとき、ぼくは迷わず秋に手を挙げたけれど、春に手を挙げるひとが圧倒的に多かったことに驚き、なぜか恥ずかしい思いをした記憶がある。 春は陽気、秋は陰気ってわけではないけれど、子供心に多少キズがついた。
音楽の時間でもよく似たことがあった。 学年最後の授業で、これまでに習った好きな歌をリクエストし、それをみんなで歌うことになった。 「おお牧場は緑~♪」など、みんなは長調の楽しく元気な歌をリクエストしていたのだけれど、ぼくは「山に夕日おちて~♪」という、憂鬱で暗い短調の歌を大声でリクエストし、みんなで暗く合唱したのを思い出す。
大人になって、そのような嗜好を「勝手に」芸術と結びつけ、自身を無理やり納得させている。


とはいっても、桜は美しい。
葉のない枝から花だけ咲かせているのは未だに不思議だけれど、濃茶色の枝と花の淡いピンクのコントラストが、実によい。 また花が散り始め、枝から生え出る葉の緑が加わる「葉桜」も好きだ。 いや、どちらかといえば、5分咲き程度の咲き始めか、少し花が散った「葉桜」のほうがぼくの好みに合っている。 満開というのは、「山に夕日おちて~♪」のぼくには爛漫(らんまん)過ぎるのだ。
アラーキーこと写真家の荒木経惟は「花は性器だ」と言っていたけれど、花には「おしべ」や「めしべ」があり、そこで受粉という性行為が行われることを考えれば、彼の言っていることは正しい。 ということは、満開とは性器の乱舞であり、やはりぼくは少し引いてしまうのだ。



桜の花の散り際にたとえて、「花と散る」という美学が日本にある。
これがどうも好きになれない。 花がしおれる前に散るのが「潔(いさぎよ)い」ということなのであろうが、ぼくには「軟弱」に思えてならないのだ。 「見栄っ張り」であることを「潔い」と言い替え、たんに醜態をさらすのが嫌なだけじゃないのか、と思う。
たとえば相撲で、横綱や大関に負けが込んでくると休場したり、ことによっては引退する「悪しき」慣習がある。 調子が悪くて 0勝 15敗の時があってもいいじゃないか、とぼくは思う。 ボロボロになっても、一生懸命取り組もうとする姿勢が本来のスポーツマン・シップ、いや、人間の生き方ではないのか。 「散る(やめる)」のは簡単だ、「続ける」ということに意味や意義を見出す価値観が欲しい。



なにも桜の花が悪いのではない。 人間が勝手に、都合のいい価値観をそれにあてはめているだけだ。 桜の花はそんなことを知ってか知らずか、ただただ生殖活動に励んでいるのである。(素晴らしい!)
*
写真はすべて事務所のある建物の敷地内に咲く桜 (管理人さん、有難う♪)
2005年4月11日



− * − * − * −




柳澤桂子「宇宙の底で」

昨年 4月から朝日新聞に月一回掲載されていた柳澤桂子のエツセイ「宇宙の底で」が、先月 8日で終了した。 興味深い話を毎回楽しく拝読していたので、とても残念だ。
そのエッセイは、生命科学の諸問題を素人にわかりやすく、それに自分の意見もはっきり主張して、科学者らしい簡潔な文章で書かれていた。 だから、どちらかといえば骨太で男性的な性格のひとではないかと、ぼくは勝手に想像している。

柳澤桂子(1,938年、東京生れ)は生命科学の学者である。
8才の時、クリスマスにプレゼントされた育種家バーバンク(Luther Burbank 1,849~1,926、米)の伝記を読んで生物学者になろうと思った という。それを実現すべく学業に励み、その分野では先進のアメリカに留学までするが、研究生活が軌道に乗り始めた 40才のとき、原因不明の病に倒れた。
仕事(研究)も辞め、ベッドの上で文章を書く生活が始まる。 テーマは専門の「生命科学」と、自身が患者として経験したことに基づく「医療問題」である。 「医療問題」は「医療批判」でもあるため、医者からひどい言葉を浴びせられたこともあったという。

「宇宙の底で」という魅力的なタイトルに込められた彼女の思い想像しながら、そのエッセイの見出しを改めて見る。

(01) いのちの不思議を追って
(02) 本能と学習能力のふしぎ
(03) 残虐性は人間の本能か
(04) 根深きもの、それが戦争
(05) 生への謙虚さ忘れないで
(06) なぜ急ぐ、クローン研究
(07) クローン羊までの道のり
(08) ヒューズがのこしたもの
(09) いのちは誰のものなのか
(10) 弱いものを守る社会を
(11) 人格神を超越するまで

柳澤桂子は常に「いのち」を見つめ、その尊さを説いている。 それは彼女が幼少のころから興味のあったことではあるが、「死」を意識せざるを得ない原因不明の病に倒れたことが大きく影響しているのであろう。

「死ぬ見込みもなく、激しい苦痛のある人は、苦しみ続けなければならないのであろうか? (中略) 一人の人のいのちは多くの人々の心の中に分配されて存在している。 分配されたいのちは分配された人のものである。 また、「私」という存在は、四十億年の間、とぎれることなくDNAが複製され続けて生まれたものである。 いのちは自分だけのものではないということと、想像を絶する長さの歴史を持っているということが、いのちが尊いゆえんであると思う」(09)

と、自身の経験から自問自答している。
また、優生思想につながる人工授精にも疑問を呈している。

「世の中には、いろんな障害や病気をもった人がいて、それぞれの苦しみの中で生きている。 自分たちのできることの範囲で幸せをつかむ努力もたいせつではないだろうか。 私自身、三十五年間病床で苦しい生活をしてきて、幸せは自分の手の中にあると気づいた」(05)

「障害をもつものを排除する社会は、人々が自己中心的で住みにくい社会であろう。 弱いものをもっと守っていく社会であってほしい」(10)

また「神」についての彼女の考えに、ぼくは大いに共感する。

「意識が未発達のときは、自然のすべてに神を観るアニミズムである。 自我が確立されてくると、人格神をいただくことになる。この考えは宗教学では否定されているというが、生物学的には、理にかなっていると思う。 人格神を超越したところに、神のない信仰の世界があると私は信じている。 (中略) 人格神を否定するのではなく、われわれが謙虚に成熟し、人格神の存在を超越するまでは、われわれは苦しむのではなかろうか」(11)

実在するひとやもの、あるいは神・宗教を崇めるひとが多いけれど、また対象が実在していたほうがそうしやすいことも理解できるけれど、サン・テクジュベリ「星の王子様」の言葉をかりると、 「本当に大切なものは、見えないんだ」

2005年4月4日



− * − * − * −




「名前」 徒然

プロ野球が開幕といっても、人気のないパ・リーグが先行した開幕なので、どうも盛り上がりに欠ける。 好きだった「近鉄バファローズ」が、昨年オリックスに吸収されてなくなってしまったためか、ぼくも例年になく盛り上がらない寂しい春を迎えている。 長年応援してきた球団がなくなってしまった、という事実は、今後いろんなかたちでぼくに影響を及ぼしてくるのかもしれない。
球団の選手はオリックスや楽天に振り分けられ、「近鉄」にいたときと同じように今年も野球を続けている。 各球団間トレードで選手が行き交うことは毎年行われているので、実態としてはこれまでとあまり変わっておらず、ただ単に「近鉄バファローズ」という名前がプロ野球界から消えて無くなってしまっただけということになり、その現実がむなしい。

愛着のあった名前が、ある日突然なくなってしまうことはよくある。

たとえば、市町村の合併はどうだろうか。
(A)市と(B)市が合併したとき、その名前を(AB)市とする場合もあるけれど、多くはどちらか一方の名前(A)か(B)にしたり、まったく新しい名前(C)をつけたり している。そうなると、どちらか一方、あるいは双方とも名前が消えてなくなってしまうことになる。(A)市で生まれたのに、(C)市で生まれました、と言わ なければならないのだ。
いつだったか大阪市が区割りを見直したとき、南区を中央区としてまとめてしまった。 「キタ」と並び「ミナミ」という愛称で昔から親しまれていた南区は大阪文化の拠点でもあったのだけれど、その「南」という名称が地図から消えてしまい、寂しい思いをしたひとも多かったのではないだろうか。

たとえば、学校の統廃合はどうだろうか。
過疎等の理由で小・中学校が統廃合されてしまった場合、廃校になった学校の卒業生はどのような気持ちなんだろうか。 お盆やお正月、故郷に帰り久しぶりに小学校を訪ねてみると、そこには再開発のマンションが建っており、自分が学び、友と遊んだ学校が名前も実体も無くなっていた、という状況は想像するだけでも悲しい。 自分が「根無し草」になったような気になるのではないだろうか。
また国公立大学の統合・再編についてもいえる。 厳しい受験戦争を勝ち抜いて大学に入ったにもかかわらず、その大学の名前は今この世に存在しない、となると、やはり辛いものがあるだろう。

たとえば、結婚して姓が変わることはどうだろうか。
日本では、結婚するとどちらかの姓に統一しなければならない。 圧倒的に男性側の姓にする夫婦が多いけれど、なかには女性側の姓にするひともいる。 いずれにせよ、夫婦別姓が認められない限りどちらかが、自分が生まれたときから馴れ親しみ、自己と同一化した姓を捨てなければならない。
結婚という慶事に隠れてしまいがちだけれど、どちらかが妥協しないと前に進めない現在の法体系である。

結局のところ、名前は実体のない単なる「記号」ではあるのだけれど、「歴史」や「思い入れ」、あるいは「継承」といったものが一旦それにまとわり付き、浸み込んでしまうと、簡単に取替え可能な「記号」ではなくなってしまい、ともすれば実体をはるかに超える心理的影響力を持ってしまうものなのかもしれない。

だから、オリックス・ブルーウェーブが「近鉄バファローズ」を吸収合併し、ブルーウェーブという愛称をバファローズに変えたにせよ、また将来大阪ドームを本拠地にすると言ったにせよ、「ハイ、そうですか。ファンになります。」とはなかなかいかないものなのだ。

2005年3月28日



− * − * − * −




徒然

朝、駅の階段を上がろうとしてふと停車中の電車に目をやると、「女性専用車両」の出入口に立ってこちらを見ている少年がいた。 半ズボンの制服を着ているところをみると、どこかの付属小学校に通っているのだろう。 いたって健康そうで、肥えているとまでは言えないけれど肉付きはよく、半ズボンがパンパンだ。 しかし、どことなく不安げな表情をしてこちらを見ている。 「女・子供」と十把一絡げにいうのは差別用語だろうけれど、「子供」だからといって「女性専用車両」に乗って良いはずはない。

「ねえ、ぼく。 君がいま乗っている車両は女性専用なんだよ。 残念だけれど、男は乗れないんだ。 君はもうしっかりした男の子じゃないか。 そりゃあわかるよ、君の気持ちは。 美しいお姉さんたちに囲まれて、気持ちよく通学したいのだろ。 誰だってそうしたいんだよ、男なら。。。 さあ、早く降りなさい。」
と言ってやろうと思ったけれど、やめて階段を駆け上った。

不景気になると、タクシーの運転手に転職するひとが多くなるという。 たしか、デ・ニーロの「タクシー・ドライバー」や「月はどっちに出ている」の主人公も転職だったように記憶している。
一日のほとんどを車の中で過ごし、勤務時間も不規則ということで、体力が要求される仕事である。 また何より、接客業として気を使うことも多いだろう。 しかし、タクシーの運転手はいろんなひとと接する機会が多いためか、「真理」を見抜くことに長(た)けたひともいる。

テレビ・タレントの「おすぎ」だったか「ピーコ」だったか忘れたが、パリでタクシーに乗ったときのはなしだ。
仕事の都合で少し時間ができたので、タクシーを拾い、運転手に「ルーブル美術館って、何時間ぐらいで全部見ることができるのかしら」と聞いたそうだ。すると運転手は、

「お客さん、芸術ってものは、見ようと思えば何時間でも見ていることが出来ますよ」

と答えたという。確かに、言い得ている。

ぼくの敬愛する岡部伊都子さんにも、タクシーの運転手にまつわる話がある。 親戚の娘さんと、河原の土手に生えているススキをとりに行った帰りのことだ。 ピンと背筋を伸ばしたような丈の長いススキを手に持って、娘さんがタクシーに乗ろうとしたとき、車につかえてススキが折れてしまった。 彼女はべそをかきながら、大層落ち込んだという。そのとき、タクシーの運転手が振り向いて、

「大事なススキが折れて悲しいのはわかるけど、そのススキを河原で切り取ったときは悲しくなかったのですか?」

と言ったそうだ。 さすがの岡部さんも「はっ」としたという。

ところで、「女性専用車両」に乗って行ったあの「ぼく」は、さぞかし気持ちのいい一日を過ごしたに違いない、などとぼくは時々思い出しては苦笑いするのである。

2005年3月21日



− * − * − * −




ホリエモン

「カネで買えないものなど、あるわけないじゃないですか」
とホリエモンことライブドア社長 堀江貴文(32才)の言動は挑発的だ。 今回のニッポン放送株問題にしろ、昨年の近鉄バファローズ買収問題にしろ、日本が戦後築き上げてきた馴れ合い社会を、堀江氏は「金」と「スピード」で翻弄している。
バファローズの時は、同じIT企業である楽天の旧態依然とした根回し手法に敗れたけれど、さて今回はどうなることやら、と眺めていると、先日の東京地裁によるニッポン放送新株発行差し止め判決は、フジサンケイグループに属するニッポン放送が、ライブドアの株所有率が 50%となる前に、同グループの過半数所有を目的に新株を発行することを禁じたものであり、至極当然の判決だと思う。 株式会社とは株主のものとして、公正にオープンでなければならないのだから。

報道はいずれ、新聞やラジオ・テレビという既存メディアからインターネットに移行していくのは必然だが、既存メディアは旧メディアとして守旧派であることの自覚が無いように思える。 社会的な信用を築いてきた面もあるけれど、その既得権にしがみつくあまり、新しいメディアの受け入れには積極的でないように思える。 堀江氏には、その移行スピードが緩慢に思えてならないようだし、そもそも旧メディアに操作された報道をみんなが「信じている」ことに強い危機感を抱いている。

彼の価値基準は「人気」と「利益」である。
放送メディアを手に入れても、報道の内容にはまったく興味がないという。 「市民記者」を募集して彼らに自由に投稿させ、アクセス数が多く人気があれば大きく取り上げるし、人気がなければ没にする。 顔の見えない市場原理にすべてを任せ、メディア側は一切ノータッチ、というわけである。 そこには、報道の「良心」や「志」などというものは、無い。 逆に、そういうものを「思い上がり」として、彼は嫌う。

「堀江氏にはラジオで何かを伝えたいという思いが全く感じられない。 そんな人の下では働く気になれない。」
ニッポン放送に勤める中年男性の言葉であるが、はたして今のテレビやラジオ番組を視聴していて、「何かを伝えたい」という気概を感じることができるであろうか。 さしずめフジテレビなら、若くてかわいい女性アナウンサーがお笑いタレントらとギャーギャー騒いでいる印象しかないし、ニッポン放送なら、昔になるけれど、オールナイト・ニッポンの笑福亭鶴光が下ネタで人気を博していたことぐらいしか思い出せない。

「おカネで買えない価値がある」なんて言うのは、自分が努力しないことに対する逃げ、自分の才能が足りないことを認めたくない逃げですよ。(堀江貴文)

彼のいう「努力」とはお金儲けの努力であり、「才能」とはお金儲けの才能であるように思え、ぼくは彼の考え方に共感はしないけれど、彼の行動は結果的に日本の社会にとって悪いことではないような気がする。 これまでは社会の変革を外圧に頼っていたけれど、これからは堀江氏のような、たとえ本人にそのような気負いはまったく無くとも、日本の中からこの「馴れ合い社会」を変えてく人物がもっと 現れてくるような気がする。
そう考えると、誰もが納得しやすいお金というものに「頼らざるを得ない」彼の気持ちも、少しは理解できるのだ。

* * *

そういえば、ニッポン放送の今の社長は、「カメ」の愛称で人気のあったディスクジョッキー・亀渕昭信だ。 中・高生の頃、洋楽好きのぼくは、深夜になると糸井五郎や彼の放送をトランジスタ・ラジオでよく聴いていた。
あの「カメ」が今、渦中のひととなり苦悩しているんだ、と思うと、複雑な気持ちになる。 新聞で彼の写真を見ると、昔の面影もあるけれど、やはり世俗にまみれた会社人間の面構えになっているのが、寂しい。

社長なんだもの、仕方ないよね、カメちゃん。

願わくば、ビートルズが大好きだった「カメ」にしか出来ない、あの当時のリスナーが、さすがカメちゃん、と唸るような、そういう行動を示してもらいたいものだ。

2005年3月14日



− * − * − * −




公務員の管理職と国籍

8世紀前半の奈良時代に、遣唐使として大陸に渡りながら、現地で亡くなってしまった日本人の墓誌が中国・西安で見つかったという、これはもう 4ヶ月以上前のニュースである。 この時代の日本人の墓誌が中国で発見されたのは初めてということで、結構話題になったのを覚えている。 またこの日本人が、ぼくの住む街の出身ではないかという説があり、余計に記憶として残っているのだろう。
遣唐使は十数年に一度派遣され、この日本人は 717年に 19歳で留学生として参加したとみられている。 遣唐使では、唐で活躍した阿倍仲麻呂が有名であるが、このひとも出世コースを歩み、宮廷で役職についていたことが墓誌に書かれている。

* *
「姓は井、字(あざな)は真成、国は日本と号す。 生まれつき優秀で、国命で遠く唐にやってきて、一生懸命努力した。 学問を修め、正式な官僚として朝廷に仕え、活躍ぶりは抜きんでていた。 ところが思わぬことに、急に病気になり開元22年の1月に官舎で亡くなった。 36歳だった。 皇帝は大変残念に思い、特別な扱いで埋葬することにした。(中略) 体はこの地に埋葬されたが、魂は故郷に帰るにちがいない」

墓誌銘文の抄訳 (抜粋) / 氣賀澤保規・明治大教授(中国史)による
* *
そういえば中学の社会の授業で、科挙に合格して唐の朝廷で諸官を歴任した阿倍仲麻呂を誇らしく学んだものだ。 その人の出自ではなく、人間としてのアイデンティティが大切なんだ。

* * *

東京都の管理職昇進試験の外国籍拒否は「合憲」

これはひと月ほど前のニュースである。 原告は都の保健師で、在日韓国人二世の女性であり、1,988年に東京都に採用され、94年に課長級以上の昇進資格を得るための管理職選考試験に申し込んだが、日本国籍が必要として拒まれた。 彼女は提訴し、一審の東京地裁では請求を退けられ、二審の東京高裁では「外国人の任用が許される管理職と許されない管理職とを区別して考える必要があり、都の対応は一律に道を閉ざすもので違憲」との判決を得た。
しかし今回の最高裁の判断は

「重要な決定権を持つ管理職への外国人の就任は日本の法体系の下で想定されておらず、(東京都の対応は)憲法に反しない」

市民にとって良い行政が出来るか否か、が問題であり、その人の出自にどうしてそこまでこだわるのであろうか?

* * *

都民のみなさまへ (東京都のホームページより)

こういうところ(東京都)では、行政も大きな文明史観というものを持って臨まないと、実は、行政が行政になりきれない。 その最たるものが、私は国がやっている行政だと思いますね。 つまり、現実に全然追いついていない、何かと言うと、たとえば、北朝鮮の問題にしても話し合い、話し合いと言いますけどね、話し合いそのものが成り立たない相手とバーチャルな理念のようなものをかざして人間の善意をまだ信じて、話し合いということを繰り返すのは、非常に滑稽なような気がしないでもない。

東京都知事 石原 慎太郎

一体このひとは、なにを恐れているのだろうか?

* * *
なにも日本だけの問題ではないと思うし、単純に「むかしは良かった」とも言いたくはないけれど、日本人が「唐」の朝廷で活躍し、惜しまれて亡くなったという事実を鑑みると、今のぼく達が「おおらか」になれないのは、「自信」が無いからではないだろうか。

備えあれば憂い無し

お金や軍備のことではない。 人間として本来「備えていなければいけないもの」が、どうも今のぼく達には欠けているような気がするのだ。
2005年2月21日



− * − * − * −




話し言葉

「キョウジョウエキカ工事に伴い、コセンキョウを閉鎖しております」
というアナウンスが聞えた。 今朝、ホームで電車を待っていたときのことである。 一瞬なんのことかさっぱりわからなかった。 そういや先日から向かいのホームに渡る陸橋が柵で閉鎖されている。 「コセンキョウ」とは陸橋のことかなぁ。 ところで「強状液化」って?、などとぼんやり考えていると、まもなく電車が来たので、乗った。 あとで調べると「橋上駅化工事に伴い、跨線橋を閉鎖しております」だった。
これはいわゆる「話し言葉」の同音異義語問題に「専門用語」が絡んだ例である。 土地の有効利用で駅の立体化を進めるJR の社員にとっては、「橋上駅」も「跨線橋」も普段よく使う言葉なのだろう。 しかし一般のひとは、「橋上駅化」と文字で書かれていればある程度理解できるかもしれないが、「キョウジョウエキカ」と言われてもサッパリわからない。まして「跨線橋」は専門用語に近く、書かれていても理解が難しいのではないだろうか。

昨夜の NHK スペシャルでも法曹界のわかりにくい専門用語が取り上げられていた。 言葉というのは相手に理解してもらわないと意味が無い。 しかし、特定のひとにしかわからない言葉を使うことに優越感を持つのも事実である。 寿司を注文する際に、そのような言葉を使うひとがいるし、芸能界や放送業界のいわゆる「ギョーカイ用語」を日常に使うひともいる。

ぼくたち建築の世界でも専門用語というか「現場用語」がよく使われる。 たとえば施主との打合せで、床の下地材を聞かれたとき

サブロクのコンパネです

などと答えると、まさか「北島三郎のコンパニオン」とまで飛躍するひとはいないと思うが、ほとんどの施主はチンプンカンプンであろう。 実は短辺が 3尺(910㎜)、長辺が 6尺(1,820㎜)のコンクリート型枠用合板(合板→パネル)のことを言っている。 なにを隠そうぼく自身、学生のとき「コンパネ」を「コンクリート製のパネル」と思い込んでいた。

そういや、「ユンボ」という言葉にも泣かされた。
解体や造成工事でよく見かける、ショベルで土を掘る油圧ショベルのことであるが、学生のときには「バックホウ」という名前で教わっていた。 通称(実は商品名)まで先生は教えてくれない。 「コンパネ」は正式名称を略している例だけれど、「ユンボ」は多くのひとが認知して一般化した商品の名称だから、いくら「ユン・ボ」と分解してもわかるはずがない。 社会に出て自分で覚えるしかないのである。役所に出すレポートにどう書いたものか、と悩んだことが懐かしい。

1 円 50 離れたところ

これは 1円 50銭のことだけれど、それでもわからない。 50銭は 50㎝(センチメートル)で、「銭」の上の単位は「円」なので、「㎝」の上の単位である「m」が「円」になっている。 すなわち「1m 50㎝離れたところ」ということになる。 これは「ひねり業(わざ)」を用いた高度な言葉なので、あまり聞くことはない。

このような「専門用語」は閉鎖的ではあるけれど、その言葉がそれを使う業界の特徴や体質を表していたり、使うひと達の間に一種の連帯感を生んだりする場合があり、なかなか捨てがたいものでもある。 自然淘汰される言葉もあれば、半強制的に使用を禁止される言葉もあるけれど、愛おしさを感じるひとも多いだろう。

今朝の駅のアナウンスを聞いて、ぼくはこのようなことを考えていた。

* * *

昨夜の NHK スペシャル「司法大改革--あなたは人を裁けますか--」で、イタリアの裁判を視察した S君の「裁判官が裁判員に対して敬意を持っているように思われた」というコメントはよかった。 上からではなく、常に低い位置から物事を見ようとする彼の姿勢にぼくは共感する。

2005年2月14日



− * − * − * −




あなたはひとを裁けますか?、って言われても

2009年 5月までに「裁判員制度」が始まるという。 よく聞くアメリカの「陪審制」とは少し違うらしい。 「陪審制」は一般市民の陪審員が、有罪か無罪かを決める制度であり、刑罰は裁判官が決めるそうだ。 しかし、日本に導入される「裁判員制度」は、有罪・無罪だけでなく、刑罰まで一般市民の裁判員がプロの裁判官と協議して決めるという。
刑事裁判すべてが対象ではなく、下記の裁判に限定されている。
(下記の裁判を除く、じゃありませんぞ~、怖っ)

* 死刑または無期懲役、無期禁固にあたる罪についての裁判
* 故意の犯罪行為によって被害者を死亡させた罪についての裁判

裁判員は、選挙人名簿から無作為抽出で選ばれる。 「呼び出し」を受けた裁判員候補者は、裁判員等選任手続の期日に「出頭」しなければならない。 (「呼び出し」とか「出頭」とか、言葉がキツイ。何とかならんのか!)
試算では、一生のうちに「裁判員」の候補者として裁判所から「呼び出し」を受ける確率は 13人に 1人で、もし「呼び出し」を受けた場合、仕事などを理由に辞退する事は原則として許されないそうだ。
そのようにして選ばれた裁判員 6人とプロの裁判官 3人が、一緒に刑事裁判の審理に立ち会い、評議を行って、有罪、無罪と刑の重さを判断し、判決を言い渡すのである。

ぼくなんか、まだ呼ばれもしないのに緊張してきました! (笑)

そもそも「裁判員制度」の目的は、国民の中から選任された裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続に加わることによる、「司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上」にあるらしい。

趣旨はよくわかる。 これまで閉ざされた世界であった裁判に一般市民が加わることの意義は理解できるし、大いに期待もする。裁判のあるべき姿、と言えるかもしれない。 しかし、日本における「裁判員制度」に対し、敢えて不安を口にしてみる。

ぼくも含め、一般のひとは法律にとんと疎いのではないだろうか。 出版業界はあざとく「傾向と対策」本を出すだろうが、裁判員になってから一夜漬けで法律の勉強をしたとしても、たかが知れている。
プロの裁判官も参加するとはいえ、法律知識をほとんど持たない裁判員が寄り集まり、「死刑」に関わる裁判の判決を下すというのは、どうも無理があるような気がする。

また訴訟の国アメリカと違って、日本では国民に幅広く法律や裁判が根付いていないし、今後も根付かないような気がする。 なぜなら、日本は周囲を海に囲まれた島国であり、同じ人種が馴れ合う村社会の長い歴史を持つため、法律より「因習」を重んじる国民性があるからだ。 法律を持ち出すと、「そんな堅いこと言わないで。。」と諭されるのが日常である。

それに普段から物事を「公正か否か」、あるいは「善か悪か」で判断する習慣がない。 というか、なくても支障がない社会である。公正でなくとも、悪いことであっても、「丸くおさまる」ことが良いことであり、それがなによりの判断基準となってきた。

また日本人は、ひとと違う意見を述べるのが苦手であることもこの制度に向かない。 昔から「奥ゆかしい」ことが美徳とされてきたこの国で、自分ひとりだけが違う意見を述べるのは勇気のいることである。ましてプロの裁判官に対して異を唱えることはもっと難しいことだろう。

感情やその場の雰囲気に流される心配はないだろうか。 マスコミの報道を妄信し、国民のほとんどが同じ方向を向くことはよくある。 時々そのことで、外国から揶揄されたりもする。こんな具合だと、冤罪が増えないか心配だ。

最後に、ぼくは死刑制度廃止を望んでいるが、日本人の多くは「殺人犯は更生の余地なし、殺してこの世から抹殺せよ」とか「被害者遺族の気持ちを考えると、死刑やむなし」などと考え、死刑制度を支持している。 そういう一般的な日本人が判決に関わると、心情的な死刑判決が多くなりはしないかと危惧する。

いろいろ不安な面を強調して書いたけれど、どうだろうか?
ひとを裁くことができるのは「神」しかいない、とぼくは確信しているが、現実の問題として、ひとが人を裁かざるを得ないのだ。

*
ところで、偶然テレビで裁判員制度についての番組が近く放映されるらしい。(わざとらしいなぁ~/笑)    今週の 12日(Sat)、13日(Sun)のNHK スペシャル「司法大改革--あなたは人を裁けますか--」 13日には、'04年10月4日付のこの「徒然」で紹介した S 君が、晴れて日本を代表して海外視察してきたことが放映されるそうだ。 彼も出演するという。(男前ですよ/笑)
楽しみだ ♪

2005年2月7日



− * − * − * −




日ごろ「日常」を意識することはない

ぼくの一日は、朝 6時半の起床から始まる。
階下で顔を洗って再び 2階に戻り、文鳥の「文ちゃん」と半時間楽しいひととき(笑)を過ごす。 その後また下に降りて新聞に目を通しながら朝食をとり、ロックを大音量で聴いてから 8時に家を出る。
8時 45分に天王寺の事務所に着くと、まずは湯を沸かし、着替える。気候がよければ観葉植物をバルコニーに出し、パソコンのウォーミングアップといいながら、メールや Yahoo オークション、あるいは好きなアーティストの掲示板をチェックする。
12時になると昼食をとり、13時頃からダラダラと再び仕事に取り掛かる。 15時にはインスタント・コーヒーを飲む。以前はこの時「リッツクラッカー」を食べていたけれど、今は「おやつ」はない。18時頃夕食をとり、それから 22時頃までまたダラダラと事務所で過ごす。
帰宅は 23時頃で、あるものを適当に口に入れ、2階に上がってロックを聴く。 入浴中に日付が変わり、午前 1時前にロックを聴いて就寝。
このような生活をぼくは 25年近く続けている。


ここ 2~3日、風がなく最高の天気です。太陽光を浴びるため、デッキでのんびり本を読んだりして、体を癒しています。 (2,004年 1月 31日)

66才の堀江謙一さんが毎日届けてくれる日記である。
四十数年前、24才の堀江青年がひとり小さなヨットに乗って太平洋を横断したことは、当時世界中で大きな話題となった。 ぼくはまだ幼かったが、「太平洋ひとりぼっち」という有名なフレーズは今でも覚えている。
その堀江さんが、40周年ということで 2年前に再び太平洋を横断したばかりだけれど、急(せ)かされたように昨年また「SUNTORY マーメイド号」で単独無寄港世界一周の航海に出たのである。

彼の「日常」は、ひとりぼっちの航海ということになるのだろうか。 ほとんどのひとが経験しえないであろう恐怖や喜びを、自然とともに、そして自然と闘いながら味わう日々。 日の出とともに目を覚まし、日中は食料の確保に努め、日が没したら寝る。本来人間という動物がもつ原初的な「日常」であろう。


ぼくは社会に出てから一度、3週間ほど入院したことがあった。
手術するでなく、ただベッドに横になっていればいいだけの入院であったのだけれど、ひとつ大きなショックを受け、目を開かれたことがある。
ぼくはそれまでいたって健康であったため、大人のひとはみな昼の日中(ひなか)は働いているものだと「漠然と」思っていた。 入院しているひとがいることや、働きたくとも働けないひとがいることぐらい頭ではわかっていたけれど、実感として認識していなかったのだろう。

ところが自分が実際に入院してみると、多くの「いい年をした大人」が、ぼく自身もそのひとりであったのだけれど、まっ昼間から何をするでもなく、ベッドでゴロゴロしている(せざるを得ない)現実があることを知った。
病室の窓からは、道路を絶え間なく走る車やせわしなく行きかう人々が見える。 みんな働いているんだ。。。 隣の小学校のチャイムが鳴ると、子供たちの元気な声がわぁ~っとひと固まりになって病室に入ってくる。 ほとんどのひとにとっては、それがごく普通の「日常」なのだ。 しかし、そのような「日常」からかけ離れた、いや、一般社会から忘れ去られた「日常」が、入院しているひとにとっての「日常」なのだ。


「終りなき日常」とは、宮台真司(ぼくと同世代の社会学者)は実にうまく言ったものだ。 日々何かに追われ、その時々の「日常」をやり過ごして生きているぼくたちに、もうひとつの「日常」があることを想像するのは難しい。しかし、この世には いろんな「日常」があり、自分が生きてきた、そして今生きている「日常」だけが真っ当である、などと思っては大間違いだ。
* * *
一昨日、毎年恒例の奈良・松尾山(寺・神社)に行ってきた。
上の写真は昨年行ったときに撮ったものである。
2005年2月1日



− * − * − * −




たかが「賞」、されど「賞」。

受賞することを目指して日々の研鑽を奨める賞もあれば、長年の、あるいは偉大な功績をたたえる賞もある。 前者は一般に「登竜門」といわれる。 その門をくぐってはじめて一人前、という意味が暗に込められているようだ。
日本のマスコミをにぎわす賞といえば、文学の芥川賞と直木賞、それにノーベル賞だ。 建築界にも賞はあるが、一般のひとは誰も知らない。 だから、「建築界の芥川賞」とか「建築界のノーベル賞」などと、それを紹介する本人が自己嫌悪に陥るような恥ずかしい説明をしなければならない。 文学に比べ建築がどれほどマイナーな分野であるかを思い知らされる。

今月13日に発表された第132回芥川賞は阿部和重、直木賞は角田光代である。 このふたりは今回の賞をもらう以前から、ある程度知名度があったし、誰もが認める実力もある。 年齢も三十代半ばの「いい歳」である。
角田光代は、すでに流行作家だ。 児童文学でも有名だし、これまでに芥川賞・直木賞の双方に数回ノミネートされている。 いつかは獲る、と言われていたひとが獲ったことになる。

しかし、芥川賞・直木賞をいつかは獲る、と言われていたのに、未だに獲れないひとも多い。 日本だけでなく、海外でも高い評価を受けている村上春樹や吉本ばななが、その典型であろう。 また、太宰治や織田作之助、最近では中島らものように、獲らずに鬼籍に入ったひとも数知れず。 さぞ、悔しかったことだろう。

27歳の太宰治が川端康成に出した手紙は有名だ。

「何卒(芥川賞を)私に与へて下さい。 一点の駈け引きございませぬ。 深き敬意と秘めに秘めたる血族感とが、右の懇願の言葉を発っせしむる様でございます。 (中略) 私に希望を与へて下さい。 私に名誉を与へて下さい。 (中略) 「晩年」一冊のみは恥かしからぬものと存じます。 早く、早く、私を見殺しにしないで下さい。 きっとよい仕事できます」

また、長年の苦労が実って受賞したひとの言葉も面白い。 社会生活に適応せず、人間関係を絶って「世捨て人」同然に生きてきた当時53歳の車谷長吉が、「赤目四十八瀧心中未遂」で直木賞を受賞したときの言葉には、凄みがある。

「男子の本懐というか、男の花道というか。 兎も角、これで私も男になれたのだ。 これ迄、随分多くの人に小馬鹿にされてきて、悔しい,癪(しゃく)に障る思いをしてきたが、そういう人達がテレビや新聞を見て、どう思ったか。 私が捨てた女たち、私を捨てた女たち、あるいはすでに絶交した友たち、私としては、見たかっ、という思いである」

しかしぼくは、これが彼の本音だとは思いたくない。 苦労が長かった分、さすがに捻(ひね)くれてはいるが、素直な喜びを恨みで照れ隠す、彼一流の表現じゃないだろうか。

これとは逆に、昨年、弱冠19歳で芥川賞を獲った綿矢りさの受賞の言葉は、軽い。 しかしそれが、時代の空気なのであろう。

「はやりやまいはやはりやばい。 高校生の時、キャッチコピーを作れという授業で、こんな薬屋のコピーを作った。 いいやん、と思い、友達にも見せたりした。 このコピーと一作目(「インストール」)、そして賞をいただいた二作目(「蹴りたい背中」)、この三つだけが今まで私の作ったものだ。」

いやはや、人生いろいろ。(笑)

ところでぼくは、賞もなければ罰もなし、という平凡な人生を歩んでいる。 実は、サルトルが

「作家は、作品によってのみ行動する。 他人(ひと)からは、ジャガイモひとつだって貰わない」

と言って、ノーベル賞を辞退したようにカッコよく決めたい、と密かに企んでいるが、これは心ならずも「車谷長吉」化が進んできているのかもしれない。 賞といえば、小学生の時の習字はいつも「努力賞」をもらっていたことを思い出す。 習字をもっと「努力しよう」という洒落になっていたのだろうけれど、その茶化し方が子供心に、恥かしかったぜ! (笑)

2005年1月24日



− * − * − * −




「阪神・淡路大震災」からちょうど10年

マスコミの報道をみると「阪神大震災」と表記しているところが多い。 名称は略してよい場合と良くない場合がある。 こまかいことを言うようだが、「阪神・淡路大震災」の「淡路」を省略すことは、淡路島が被災したことを忘れ去ることにつながるのではないだろうか。
一般的に正式名称が決まるのはだいぶ後になるため、先行するマスコミ報道で各社が考えたいろんな呼称が「阪神大震災」という名称に収束していったのであろうが、ひとの良識にも多大な影響力をもつマスコミが、今でもこの表記を変更しないのは残念だ。 ちなみに、地震の名称は「平成7年(1995年)兵庫県南部地震」だそうだ。

10年前の1月17日(火)、午前5時46分のことはよく覚えている。 2階で寝ていたが、「ズドーン」というこれまで経験したことのない揺れに目を覚ました。 家が潰れるかと思うほど、揺れた。 しかし、まもなくおさまったので、ぼくはまた寝た。 この時点で、何千人というひとが建物の下敷きになってもがき苦しんでいることなど、想像すら出来なかった。 まったくもって想像力の欠如。。。情けない。
いつものように6時半頃起き、テレビを見て震源が神戸付近であることを知るが、被害の程度はわからなかった。 家を出る 8時頃には、多くのビルや家屋が倒れたこと、大阪市内の電車が不通になっていることがわかり、いくら鈍感なぼくでも、ただ事ではないことを知り緊張したことを覚えている。

地震から 2週間くらいたった頃、ぼくは被災した家の被災程度を「全壊」とか「半壊」などと判定するボランティアで、設計事務所に勤める青年と阪神間を自転車で走りまわった。
柱の傾き具合や基礎のひび割れ程度などを、兵庫県の設計事務所協会から渡された判定基準に基づいて判定するわけだけれど、1日に何十軒も見て廻るので、1軒当たり15分~20分ぐらいで判定しなければならない。 その家に住むひとの心情を思うと、なかなか辛い作業である。
確かに、その判定を基に県からいくらかの建て替え支援金が出るわけだが、そのお金だけで新しい家が建つはずもなく、なにより自分が生まれ育ち、そして今まで生活してきた家を「全壊」と判定されて壊さざるを得ないひとの気持ちを考えると、判定作業は重責で気分も沈んだ。 それでつい判定を言い淀んでしまっていたのであるが、一緒にまわっていた青年が、昼休みにぼくにこう言った。

「天野さん、全壊なら全壊と、もっとハッキリ言った方がいいですよぉ」

それは、わかってるんだけれど。。。

半年ほど後、著名建築家による震災についてのシンポジウムがあった。 建築家と言われるひとの、この震災に対する意見や考え方に関心があるのか専門家だけでなく一般の人も多く詰め掛け、大阪の会場は満員だった。 この震災で建築家が語る「建築」や「都市」の理念に不信感が高まるのを払拭してくれるのではないかと、建築家の端くれとして、ぼくは彼らの言葉に期待した。 しかし、結果は大きな失望に終わった。
今回の震災で建築家として何かしたのか、という会場からの質問に、東京から来た当時59歳のある建築家は、

「呼ばれもしないのに、力のないわたしのような年寄りがのこのこ出て行っても、邪魔になるだけでしょ」

と、なにくわぬ顔して答えたのである。 また、壊滅した今の神戸を新しく都市計画するのならどのようにするか、との問に、別の建築家は、

「今の状態ではやりようがない。 何も無い更地の状態にすれば、わたしにもいろいろやりたいことはある」

と答えた。 このふたりは、建築界ではビッグ・ネームである。ひとりは駅ビルを国際コンペで勝ち取り、当時破竹の勢いがあった。 もうひとりはカリスマ建築家で、60年代から著作も多く、影響力絶大な国際的な建築家である。
被災者もいるであろう会場で、彼らがこのような上から目線の発言をしたことは、いや、このような発言をしても平気でいられるぼくたちの「建築家」という閉ざされた世界が、どれほど一般の人たちの意識と乖離しているかを見せつけられたような気がした。 ぼくはとても恥ずかしかったし、自分が長年目指してきた世界が嫌になった。

もう 10年も前のこと。 ぼくは今もこの職にある。
「阪神・淡路大震災」は、いろんなことを教えてくれたような気がする。

2005年1月17日



− * − * − * −




えべっさんに行ってきた

大阪(関西?)では恵比寿神のことを「えべっさん」という。 「恵比寿さま」が縮まって「えべっさん」になったのであろう。 毘沙門天を除けば、みな親しみのある擬人化された七福神のひとりである。
右手に釣竿、左手に鯛を抱えている「えべっさん」の姿でわかるが、そもそも豊漁をもたらす神さまであったそうだ。 豊漁で港が栄えれば商売も繁盛するということで、商売繁盛の神さまとして一般化されたのであろう。

全国に3,500以上あるといわれる「えべっさん」の総本社は、兵庫県西宮市にある西宮神社だ。 ここでは毎年 1月 10日、「開門神事福男選び」という神事が行われている。 本殿に辿り着いた先着3名に「福男」の称号が与えられ、その年の「福」が約束されるというものである。
冬の寒い夜明け前、6時の開門と同時に数千人のひとが 200m先の本殿目指してなだれ込み、熾烈な競争を繰り広げる。 最近は過熱ぎみらしく、神事が単なるレースと化し、走路妨害で1番返上などという、笑顔の「えべっさん」も顔をしかめたくなるようなこともあったそうだ。

にぎわう今宮戎の夜 / 福笹


ぼくは「特定の神」を信じていないし、組織化された宗教というものに意識して距離をおいてきた。 一人のひと(神)を「祀り上げる」というのが嫌なんだ。 しかし、お正月には初詣に行くし、クリスマスやキリスト教会の雰囲気も好きであり、極めていい加減な人間であることは、充分自覚している。
そのぼくが建築家として事務所を持ってから、毎年 1月 10日には「えべっさん」(十日戎)に参っている。 これまでご利益(りやく)があったかどうかは、わからない。 しかし、こうして今まで仕事を続けてこられたことを考えると、やはり「えべっさん」に感謝しなければならないのかもしれない。

ぼくが参る「えべっさん」は、大阪市浪速区にある今宮戎(えびす)神社である。 事務所からだと、天王寺公園や新世界をはさんだ西側にあり、歩いても行ける距離だ。 他の「えべっさん」に行ったことがないのでよくわからないが、今宮の「えべっさん」は、夜がすこぶる美しい。


鮮やかな露店


参道に並ぶ露店では、えべっさんの顔を貼り付けた派手な「ざる?(お金をすくう)」や「熊手?(お金を掻き集める)」ような縁起物が、店の壁や天井におびただしく掛けられており、白と赤を基調としたそのどぎつい色彩に圧倒される。 福笹や福あめ(金太郎飴)も色どりを添え、実にカラフルな世界が展開されている。
ひとに「もみくちゃ」にされながら境内に入ると、「商売繁盛♪、笹もってこい♪」と威勢の良い掛け声が響いている。 参拝者が頭上に掲げた笹が揺れ、それが照明に照らされ、緑が映えて美しい。 本殿の前は、端から端までの大きな賽銭スペースとなっている。 1万円札が惜しげもなく投げ入れられているのをみて、ぼくはただただ驚くばかり。(小心者です/笑)
福笹に「吉兆」と呼ばれる縁起物を付けてくれるのが福娘で、これがまた美しい。 昔から福娘は縁談や就職に有利とあって、今年は 3,500人の応募から40人が選ばれている。 芸能人や芸妓さんが乗った宝恵かごの行列もあり、盛りだくさんの「十日戎」である。

このような「えべっさん」ワールドを体感してとても幸せな気分になるのは、多分ぼくだけではないだろう。 しかつめらしい理屈ではなく、「えべっさん」にはひとを楽しませ、そして幸せな気分にさせるエンターテイメントの要素があり、不思議なパワーを発散しているような気がするのだ。

来年も行くぞ!(笑)
2005年1月11日



− * − * − * −




新年、明けましておめでとうございます。
今年も宜しくお願いいたします。

昨日、初詣に行って「おみくじを」を引くと、「小凶」でした。(笑)
帰るとき、肩にポタッと何かが落ちたので見ると、鳥のフンでした。(笑)

ウンがついてるぞ!

今年は何か良いことがありそうな予感がします。(笑)

2005年1月2日